ともにおられる神

(拝読箇所)「イザヤ書」49:14〜21

49:14 しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。
49:18 あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
49:19 あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
49:20 あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。
49:21 その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。

(口語訳聖書より)

 こんばんは。今日は、「共におられる神」と題して、「イザヤ書」から、主の御言葉を学びたいと思います。
 実はこのごろ、なにやかやとバタバタしていて、世情に疎くなっていたので、先日、夜家に帰ってニュースを見ようと思いテレビをつけてみました。わたしは日頃テレビをあまり見ないのでよく分からなかったのですが、どのチャンネルでも同じことを取り上げていました。みなさんご存じの拉致事件です。北朝鮮に拉致された日本人が永住するとかしないとか、いろいろかまびすしいことでありました。それは、今私たち日本人が直面する大変重要な問題なのでありますが、同じような事件が、今から2500年以上も前に起きていたのであります。それも一つの国の主立った人たち、政治家や知識人たちを中心に何千、何万という人々が他国に連れて行かれるという、考えられないほど大規模なものでした。いわゆる「バビロン捕囚」であります。

 南ユダ王国がバビロニアとの戦いに破れ、首都エルサレムが陥落したのが紀元前587年のことであります。実はその十年前にバビロニアのネブカデネザル王がエルサレムを占領し第1回バビロン捕囚がありました。この2回のバビロン捕囚によってイスラエルの人々はその国を追われ、異国の地で暮らすことを余儀なくされました。今回取り上げた箇所はいわゆる第2イザヤと呼ばれるところで、イスラエルの人々がバビロンから解放され、祖国へ帰る直前に書かれたものであります。

 イザヤ書は全部で66章ありますが、1章から39章が「第1イザヤ」と言われ、紀元前8世紀後半に活動した預言者イザヤの預言を集めた書とされています。40章から55章は「第2イザヤ」と言われ、バビロン捕囚前後の時期に生きた名前も素性も分からない預言者の預言を集めたものです。56章から66章までは「第3イザヤ」と名付けられていますが、実際は複数の預言者の預言を収録したものだそうであります。

 「第2イザヤ」には有名な「僕の歌」という4編の詩がありますが、今日取り上げるところは2番目と3番目の「僕の歌」の間にあり、岩波版『イザヤ書』では、「シオンへの言葉」と言われています。シオンとは、実際はエルサレム近辺の丘のことですが、ここではエルサレム全体を指しています。つまり、選ばれたイスラエルの民を指しているのです。

 イスラエルの民は、エジプトから彼らを導き出した神を忘れ、他の神々を信じ、礼拝しました。彼らは、「十戒」の第1戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」という戒めを破ったわけであります。だからシオンは14節で「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と言うのです。この言葉は、主への疑いです。「十戒」の戒めを破ったイスラエルを主は捨ててしまい、主によって忘れられてしまったと思ったのです。つまり、主の自分たちに対する信頼、いや主が今まさにおられるのだということを信じられないのであります。しかし、主は「そうだ」とは言われませんでした。15節、16節で主はこう言われます。

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」

 なぜここで「女」が例としてあげられるのか不思議に思われるかもしれませんが、元来ヘブル語で「シオン」とは女性形であり、それを意識して書かれているからであります。
 神はシオンに対して、「人間の女が妊娠しているときに乳飲み子を忘れることがないように、私もおまえたちを忘れることはない」と言われます。「掌に刻む」とは、私たちが忘れ物をしないように手のひらにボールペンで書き付けるのに似ています。関根政雄氏はこれを「愛の印」と読んでいます。神は、それほどまでにシオンを愛し、忘れることはないと明言されるのであります。続くところで「石がき」とありますが、新共同訳・新改訳・岩波訳ではいずれも「城壁」と訳されており、要するに「イスラエルの土地すべてにわたって私がいる」と主なる神はおっしゃっているわけです。

 17節では、「あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。」という御言葉が語られます。関根氏によれば、その前半部は「建てられる速度が破壊される速度より早い」ことを意味しています。また、岩波版では「急いでやって来るのは、あなたの子供たち。」と訳されていて、この「子供たち」とは、「バビロン捕囚に連れて行かれたシオンの住民を指す」と注記されています。後半部のシオンを「荒らした者」とは、内部の敵か外部の敵かはっきりしませんが、要するに王国(ここでは南ユダ王国)を破壊する者という意味です。つまり、ここで神は、バビロンに捕らわれていた人々がエルサレムに帰り、破壊された町は速やかに建設されると言われるのです。言い換えるなら、14節で神を疑ったイスラエルの人々を決して見放そうとはしない神が、ここにおられるのです。

 18節で、神は、「あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。」と言われます。前半部分は、ほとんど同じ表現が60章4節にも見ることができます。関根氏によれば、「彼ら」とは「シオンに戻ってくる者たち」を指します。そう、全世界から、シオンの娘、息子が母なるシオンの元に返ってくるのです。そして、そのことが必ず行われることを神は約束されます。それが、「わたしは生きている」という主の御臨在を表す御言葉なのです。「私は生きている。だからわたしの言葉は真実そのものだ」と、主は言われるのです。

 19節では、「あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。」と言う預言がなされています。国土の荒廃は終わりを告げますが、帰ってくる人が多いために住むところが無くなってくるというのです。しかし、彼らをその故郷から追い出した敵は、すでに遠くに離れていっているのです。
 「あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を得させよ』と。」という20節の意味は、こうであります。「あなたが子を失った後に生れた子ら」とは、イスラエル民族が離散していったその土地で生まれた子孫たちのことを指しています。彼らは、帰るには帰ってきたが、土地が狭すぎて生活できないと言うわけです。荒廃した国土に大量の国民が帰還したとき、どういう状況であったかは戦後の日本を見るとよく分かると思います。

 21節は、シオンの驚きを表しています。シオンという言葉がエルサレムを指す言葉であることは先ほど申し上げましたが、ここでは、エルサレムを「不妊」の女性としてたとえています。

「その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。

「わたしは子を失って、子をもたない」とは、「不妊」、つまり子供ができないことを表しています。しかも、彼女は神を疑い、ただ一人取り残されたのであります。しかし、考えられないほど多くの人々が国に戻ってくる。いったいどこから、こんなに人々がやってくるだろうというシオンの疑問は、神への疑問そのものでもあります。それでも、神はシオンを愛するが故に、その名を忘れず、人々を捕囚の地から開放されたのです。

 これまで、私たちは「イザヤ書」49章14節から21節までを、少し詳しく見てまいりました。では、この部分で最も重要な御言葉はどこなのでしょうか?私は、それは

「わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。」

という御言葉だと思います。「イザヤ書」では主の語りかける対象はイスラエルの人々でありますが、この御言葉は、決してそれだけではないと思うのであります。
 私たち日本人は、イスラエルの人々と同じ過ちをしていなかったでしょうか?戦時中、日本のキリスト教各派は「日本基督教団」として一体化され、天皇への服従を強制されました。唯一の主なる神を信じているはずのクリスチャンたちが、現人神として君臨する「天皇」を礼拝することになったのです。それは、異教の神を崇拝するイスラエルの人々と全く同じ過ちでした。しかし、神は私たちを見放すことはありませんでした。戦後のキリスト教復興・リバイバルはそれを如実に表しています。
 そうなのです。主は、常に私たちと共におられ、私たちを導いてくださっておられるのです。私たちをその愛で包み込み、恵みを与えてくださっておられるのです。「イザヤ書」第41章10節にはこのような御言葉が記されています。

  「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える。」

 何という力強い御言葉でしょうか。主はその言葉通り、バビロン捕囚から人々を解放されました。その上、私たちの罪を購うためにその一人子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。そして、今もまた、私たちを様々な束縛から解き放たれておられます。経済的な苦しみ、精神的な苦しみ、病などから主なる神は私たちを解放してくださるのです。イエス・キリストの十字架による罪のあがないを信じ、神が今まさにここにおられると信じるとき、私たちに平安が与えられるのです。どんなに苦しくとも、主がそこにおられ、暖かい息吹を私たちに吹きかけられ、大いなる御腕で包み込み、豊かな愛をわたしの心に注ぎ込んでくださっておられるのを感じるとき、私たちは苦しみから逃れることができます。実際の御利益があるというのではありません。そうではなく、私たちの心が神様によって満たされ、安らかでいられるのです。

 主は私たちのそばにおられます。インマヌエル。大いなる主を賛美しましょう。

 お祈りいたします。

 私たちのそばにいつもおられ、私たちを導いておられる主に感謝いたします。私たちの置かれた状況は厳しく、御言葉を伝える技もままならない現状です。主よ、どうか多くの人にあなたの愛を与え、御言葉を聞く耳をお与え下さい。そして、あなたの愛によってすべての人々の心が満たされ、全世界に平和がきますように、お祈りいたします。私たちのそばにおられる主なる神様、どうか私たちに力と知恵を与えてください。あなたの御言葉を述べ伝えるものとして私たちを導いてください。感謝してこの祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン。

2001.11.10 高山裕行・神学生

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