ヨブの信仰(ヨブ記を読む・第1回)

(拝読箇所)「ヨブ記」第1章1節〜22節

こんばんは。
 早いもので、2003年になって早10日以上が過ぎてしまいました。(編者注:このメッセージは1月12日に語られたものです。)2003年がどんな年か思いめぐらしますと、なにやら背筋が寒くなるような気がしてまいります。アメリカはイラク攻撃のチャンスをうかがい、日本はイージス艦を派遣すると共に、有事立法の改悪を行おうとしています。時代は変わりつつある、そんな気がしてならない今日この頃であります。
 さて、先日、用事があって地下鉄のホームで電車を待っていました。そのとき、私は生活が苦しく「主よ、どうしてこんなにお金に苦しまねばならないのでしょうか」と問いかけ、自分でできることをあれこれ考えておりました。そのとき頭の中にこんな声が響いたのであります。

「己に頼るな。ただ私だけを信頼せよ」

 主なる神は、神にすべてを委ねるのではなく、自分で何とかしようとする私の傲慢な心を見破られたのであります。そして、「ヨブ記を読め」と仰せになりました。帰宅して「ヨブ記」を通読し、主が私に「ヨブ記を読め」と言われた意味が分かったような気がいたしました。「傲慢さを捨て、ただ私(主なる神)だけを信じて生きよ」と、主は言われるのであります。「ヨブ記」には義人ヨブに与えられた苦難に対するヨブの姿を通して、私たちの真なる信仰の姿とそれとは裏腹の人間の傲慢さが、余すところなく表されていると私には思えるのであります。同時に私たちに対する神の試練と愛も共に表されているのであります。今年は毎月1回の夕礼拝を通してヨブ記を6回に分けて読み進め、私たちクリスチャンのあるべき姿を検証しようと思います。
 本日は、その第1回目ですので、旧約聖書におけるヨブ記の位置づけ、その内容を簡単におはなしすることにいたします。
 
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 旧約聖書66巻の中で、「ヨブ記」は、「詩篇」「箴言」「伝道の書」「雅歌」と続く「文学書」の最初に位置しています。全部で42章からなる、かなり大きな書物であります。形式的には、散文で書かれた「プロローグ」と「エピローグ」の間に、詩文で書かれた部分が挿入された形になっております。この詩文の部分は友人たちとの対論の形をとっており、なかなか分かりにくいところでもあります。題名になっている「ヨブ」とは主人公の名前ですが、その意味は明らかではありません。「エゼキエル書」14:14,20には「ヨブ」の名が「ノア」「ダニエル」と共に列挙されていますが、これは「ヨブ」に関する古い伝説によるものと思われます。ただ、「ヨブ記」の著者は明らかではありませんが、書かれた時代は本書の内容からバビロン捕囚以後、およそ紀元前450年から350年までの間と推定されています。内容としては、義人ヨブに与えられた故なき苦難(持ち物すべてを奪われ裸一貫になってしまったヨブと、それに追い打ちをかける重い皮膚病によって変わり果てた姿になったヨブ)に対する、ヨブのとる態度が書かれております。基本的には、どんな苦難の中にあろうと主なる神を恨もうとせず逆に賛美するヨブなのでありますが、大きな部分を占める友人との対論の中で、ヨブの心の中が浮き彫りにされてくるのであります。その内容については、順を追って学んでいくことにしたいと思います。ヨブの心の中を読むことによって、私たちキリスト者の生き方も自ずと明らかにされてくると思うからであります。そこで、今日から6回にわたって、「ヨブ記」から学んでいくわけですが、今日取り上げるのは、そのうち「プロローグ」の部分、つまり第1章と第2章であります。

 第1章で、ヨブは「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。」と記されております。ウヅと言う地名がどこなのかははっきり分かっておりません。しかし、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」人で、しかも大富豪と言ってもいい人物だったのであります。そのような敬虔で神を恐れるヨブを主なる神は「私のしもべヨブ」と呼んでおります。神が「私のしもべ」と呼ばれている人は、旧約聖書ではモーセ、ダビデなどそれほど多くはありません。なぜならこれらの人々は神によって特別に選ばれた人、言い換えれば、主なる神と「契約関係」にある人だからであります。つまり、ヨブもまた同じように神から選ばれた人として描かれているのであります。では、いったいそのような人物に、なぜ先に述べたような苦難が襲いかかったのか。それは、天上における神とサタンのやりとりが原因でありました。


 6節には「ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。」と書かれていますように、ヨブ記におけるサタンは、現在の我々が考えるような神と対立する存在ではありませんでした。神の御使いの一人であったわけです。そのサタンに対し、神はこのように問われます。8節「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。主はヨブを義なる人として認めておられるのです。そうです。どんな苦難に陥ろうとも、神を信頼し、裏切ったりすることはないと、主ご自身が宣言されているのであります。それに対し、サタンはこう言います。

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」(1:9)

 ここで「いたずらに」と言う言葉は、新共同訳では「利益もないのに」と訳されております。つまり、サタンは「ヨブは神から祝福され持ち物すべてを守られているから、神を畏れるのであって、それらを全部失えば神を呪ってしまうだろう」と、主なる神に挑戦しているのであります。
 このサタンの言葉は、大変示唆的な言葉ではないでしょうか。何か自分にとって利益があるから、神を信じ、敬い、畏れる。これは、まさに御利益宗教の姿であります。サタンは、信仰をそのようにとらえ、神に主張するのであります。それに対して主は「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」と仰せになりました。神は、ヨブの持ち物をすべてなくしてしまうことによって、ヨブの信仰を試そうとなさったのであります。しかし、神は、そうされても、ヨブは神から離れることはないと確信していたのであります。同時に主なる神は、ヨブを愛されていたのであります。愛すればこそ、神はヨブを信じ、災厄をもたらすことによって、その心の堅さを示そうとなされたのであります。

 13節から19節までは、サタンによってヨブのすべての所有物が失われてしまう悲惨な事実が描かれています。ヨブは、家畜や家のみならず、子供たちまで失ったのであります。しかし、ヨブの信仰は揺らぎませんでした。21節で、

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」

とヨブは神を賛美するのであります。ヨブの持ち物はすべて神のものであり、それを与えられた神はそれを取り戻す権利を持っている。ヨブは、何も持たずに生まれ出たのだから、今度は何も持たずに「かしこに帰ろう」、言い換えれば「すべてのものの母と言われる地に帰ろう」と言うのです。22節には、「すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。」と書かれています。「罪を犯さず」とは、「神を呪うようなことをしなかった」と言うことであり、「愚かなこと」の原語は「道徳的分別を欠くこと」という意味を持っていますので、「神に向かって愚かなことを言わなかった」とは、「神が分別を欠くようなことをしたと言って非難するようなことをしなかった」と言うことであります。つまり、ヨブはこのような災厄にあっても、神を信じ、主に対して忠実であり続けたのであります。

 2章でも同じように神の子たちが神の前に立ち、サタンも同じように立ちます。主はサタンに言われます、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。そうです。神はヨブが滅ぼされようとしたにもかかわらず信仰を捨てなかったことを、つまり神の第一ラウンドでの勝利を宣言します。しかし、サタンは再び反論して言うのです、

「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」

サタンは、こんどはヨブの肉体を醜い状態、病気になった状態にしようと進言するのです。そうすることでサタンは自分の優位性を明らかにしようと試みたのです。神は、今度もサタンの主張を受け入れられました。なぜでしょうか?それは、主なる神がヨブを完全に信頼し、ヨブにとって神が、神に対する信仰が、ヨブの経験した災厄や試練によって左右されるものではないことを、主ご自身が確信していたからであります。


 2章でのヨブは、体全体を「いやな腫物」で覆い尽くされ、「陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」のです。「嫌な腫物」とは人々の忌み嫌うライ病の一種であったのではないかと言われております。また、「灰の中に座った」とは、その皮膚病の故に町の人から嫌われ、町から離れて最下層の人たちと共に生活したことを意味しているのであります。この第2章では、ヨブの妻が「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言う言葉を、ヨブに向かって吐くように言います。長年連れ添った妻から、ヨブは「信仰を捨てよ」と言われたのであります。「神を呪え、あなたをこのようにした神を呪え」と言う妻の言葉は、サタンと同じであります。つまり、自分にとって不利益なことをなすものは信仰の対象とはなり得ないのであります。しかし、ヨブは違いました。
 10節にはこう書かれています。

「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。」

ヨブの信仰は、確かに固いものでありました。ヨブは、いかなる幸いも災いも神から来ると信じていました。従って、幸いだけを受け入れるのが信仰ではなく、どんな災いであっても神を呪うことなく受け入れなければならないと言う徹底した信仰を持っていたのであります。まさに、ここにおいて、神はサタンとの勝負に勝利したのであります。

 ここで、私たちは、すこし考えてみたいと思います。本当に、幸福も災いもすべて神からの賜物として受け入れる強い信仰を私たちは持っているでしょうか?何かに成功すれば「神様ありがとう」という人が、苦しみに出会うと「なぜこんな苦しみに合わせられるのですか」という。多くの人は、私も含めてそうなのではないでしょうか。最初のご紹介した私の体験もまた、そういう不信仰な態度から出てきたものであります。ただ、神は、私たちと共におられ、常に私たちを見ておられます。ですから、私に「ヨブ記」を読んで、自分の信仰を確かめよと言われたのだと思うのであります。第一章、第二章におけるヨブは、まさに信仰者の模範と言っていい人物として描かれております。ここを読むとき、自分の信仰についてすこしでも考えない人はいないでしょう。でも、私のようなあまのじゃくは、本当にヨブは神に対して文句一つ言わないのだろうかと考えてしまうのであります。その答えは、友人たちとの対論を通して、次第に明らかにされていくのあります。

 ところで、今日のタイトルは、「ヨブの信仰」といたしました。ヨブの信仰を考えるとき、私は一人の詩人の詩を思い起こすのであります。この詩人は女性のクリスチャンであり、全身麻痺で寝たきりの方であります。彼女の詩にこんな詩があります。


  この命は/神様がお与えくださったもの/そしてあなたが残してくれたもの/この体は/神様がお造りくださり、/そしてあなたが生んでくれたもの/私は神様に愛され/導かれ守られながら/平安な生活の中で/あふれるほどのあなたの思い出に/浸っているのです


「語らい」という題の詩であります。ベッドに寝たきりで、満足に手足を動かすこともできない彼女は、それでも、自分の境遇を呪ってはいません。すべては神様に与えられたものであり、自分は神様に愛されている。いかがでしょうか。ここに見られる信仰心は、今日学んだヨブとほとんど変わらないと言っていいのではないでしょうか。もう一つこんな詩も忘れることができません。

出会い すばらしい出会いでした/あなたのたくましい手の中で/細い私の指が/小さくふるえていました
証の詩と 賛美の詩が/二人の間で作られました
神様からたまわったこのお交わりを/天与の賜物として/互いに祈り合い/互いに信じ合い/互いに生きて行く
出会い ふれあい 信じ合い/この言葉こそ/私たちの言葉ではないでしょうか


 「出会い ふれあい 信じ合い」、これは人間同士のことではありません。それは、イエス様と出会い、その肉体に触れ、互いに信じ合うことによって、イエス様を通して私たちに表される主なる神様を信じると言うことであります。
 この詩の作者は岡井久子さんとおっしゃいます。その信仰はまさに揺らぐことのない信仰と言っていいでしょう。そのような信仰が、なぜベッドから一歩も離れられないような彼女に芽生えたのか?それは、神が、私たちを創造された主なる神が、私たちと共にいて下さるからではないでしょうか。「出エジプト記」には人々の前後ろで雲の柱、火の柱となって民を守る神の姿が描かれています。イザヤ書第四一章二〇節には

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利に右の手をもって、あなたをささえる。」

と、力強い御言葉が記されております。ヨブにとっても、神とは、まさにこういう存在であったのであります。だからこそ、ヨブは、その固い信仰を守ることができたのであります。
 私たちもまた、岡井さんのごとく、またヨブのごとく、共におられる主を信頼し、主にすべてを委ねる信仰生活をおくりたいものであります。お祈りしましょう。

恵みと哀れみに富みたもうイエスキリストの主なる神様、今日一日を無事に過ごすことができましたことを感謝いたします。ヨブがどんな苦難にあってもあなた様への信仰を捨てないでいたように、私たちもまた、イエス様を通して私たちの前に現れる主なる神様が、いつも私たちと共におられ、私たちを導き、勇気と知恵を、そして生き抜く力を与えてくださることを感謝いたします。あなたが限りない愛を私たちに降り注いでくださっておられることを感じます。私たちは己の信仰をいつも見直し、聖書の御言葉をいただくことによって信仰生活を守っていきます。主よ、どうか私たちが信仰の道から外れないように、常に見守ってください。この祈りを、感謝して、主イエス・キリストの聖名によって御前にお捧げいたします。アーメン。

2003.1.12 高山裕行・神学生

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