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第一章 初めて軍服を着て
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父と子の、最初で最後の旅が終わった。日本人は、死ぬまでに必ず一度はお詣りせねばならないという父の信念に従って、満州国に現地現役入営する私は、伊勢神宮・橿原神宮を父に従って参拝したのである。翌昭和十五年二月二十五日、或いはこれで一生の決別となるかも知れないと思う父と別れて、命令書のとおり大阪八連隊に入隊、身体検査を受けた。幸い合格して、二等兵であることを示す一つ星の軍服と、三八式歩兵銃、帯剣、軍靴、巻脚絆が支給され、早速身に着けるやすぐに出発を命ぜられた。
当日は朝より雨で、兵隊の人数は定かでないが、数百名はいたと思う。四列に並び、銃をかついで大阪市内を行進した。もちろん初めて着用した軍服であり、軍隊の教育は未経験の者ばかりであるが、生まれて初めて着た軍服と帯剣に銃を肩に乗せて歩いていると、心の中は一人前の軍人になった気持ちになってくる。「俺は、軍人となったのだ。今日からは日本を守るため、満州へ向けて出征するのだ」という誇りと満足感で、雨に濡れながら、前を進む兵隊に従って歩いた。
満州へ渡るには、まず海を越えねばならない。たぶん大阪港をめざすものと考えられたが、大阪港はどこで、どの位の距離があるのかさえ知らない。ただ夢中で歩いた。雨ですっかり腹の底まで沁みるほどずぶ濡れである。何時間歩いたか、日の丸の旗を振って見送ってくれる沿道の人達に励まされてなんとか大阪港に着くことができた。
「お前達はまだ教育は受けていないが、大日本帝国の軍服を着け、菊の紋章のついた銃を持っている、立派な皇国の一員である。これより前方の船に乗って、満州へ向かって出発する。所属の指揮官に従って行動するように……」
総指揮官と思われる将校の訓示が終わると、早速各班毎にわかれて乗船をはじめた。赤く錆びた巨大な貨物船である。別れて既に故郷に帰っていると思っていた父が港に来ていて、乗船する私の姿を陰ながら見送っていたことは、入隊後の手紙で知らされた。親の愛情に思わず胸が熱くなり、人目を避けて泣いた記憶がある。
私たち兵隊は、船腹に荷物の代わりのように隙間なく詰め込まれて、波による揺れに身を任せていたが、船はひたすら瀬戸内海を西に向けて航行していった。
誰かの、夕焼けが美しいという声につられて甲板に上ってみた。便所が甲板近くにあるので、用便以外は甲板に出ることを許されていなかった。夕茜の空と海を眺めながら、船は下関付近を直行しているように思われた。夕日の美しかった日本の海と空、或いはこれで最後になるかもしれないと思ったりした。
日本が遂に見えなくなりてより兵等は軍歌うたひそめたり
船はやがて関門海峡を通過して日本海に入り、玄界灘に向かったらしく、揺れが次第に大きくなり出した。あたかも三階の建物から地下室まで急降下する乗り物にでも乗っているような感覚、特に上昇の時より、急降下の時は、魂を空に残して肉体だけが船とともに降下するようで、乗り物に強いといった自信はたちまち崩れ、ゲロゲロ吐物を出す兵隊と一緒になって、身の置きどころのない儘に、船酔いに苦しんだ。野外演習
十日余り過ぎた頃、初めて兵舎外の訓練が始まった。兵舎外は、一般住民の生活するいわゆる婆婆であり、他国でもある。
前年五月、ノモンハン事件で日本軍が惨敗し、九月に停戦協定が結ばれたばかりである。したがって勃利も治安が悪く、匪賊の襲撃などが絶えないと聞かされた。しかし、私たちは訓練で舎外へ出ることの危険性をあまり理解していなかった。出発前に各々実弾(小銃)六十発を左右の薬嚢に三十発宛詰め、腰の帯剣は蛤歯でなく歯が付けられていた。何時、どこで匪賊の襲撃を受けても、応戦出来るよう戦時装備をして訓練をするのだと伝達され、緊張で背筋に冷たいものが通り過ぎ身震いがつく。
訓練は昼間より、順次夜間訓練に進み、第一期間約三カ月間で、終わるまで続くのであるが、筆舌に表現し難い過酷な訓練である。一例をあげると、仮想敵陣に迫るに従って、一定距離を走って伏せ、射撃(動作のみ) する。また、 走って伏せると射撃する。敵陣地に近付くに従って姿勢を低くせねば敵弾に当たるから、立って進むわけにはいかない。膝をついて進む。着剣した小銃を右手で持ち、匍匐して前進する。最後は「突撃!!」の命令が出ると、大声をあげて仮想敵陣地に突入して終わるのであるが、これが毎日毎日の繰り返しである。 少しの凹み、物の陰を咄嗟に選び、二、三発引き鉄を引き空撃ちをする。「進め」でうっかり立とうとすると、教育上等兵殿が傍らに寄って来て、
「お前は戦死だ。今迄撃っていた場所に、敵はお前の出るのを照準定めて待っている。だから敵の弾に当たっている。左右何れかに何歩か位置を変えて何故飛び出さないか」背中に鞭がピシリと鳴る。小銃を片手に匍匐前進することは非常に体力を要して苦しいから、自然に姿勢が高くなると、
「姿勢が高い、敵弾が本当に飛んで来る時、お前はそんな姿勢で前進できるか。戦死だ!!」
また、鞭が飛ぶ。二、三発空撃ちをする時も、
「今敵を狙って撃ったか!!一発の弾でも大切にしろ。『引き鉄は、心で引くな、手で引くな、暗夜に霜の降る如く』教官に習った気持ちを忘れるな」
また、ピシリという具合である。
連日繰り返される猛訓練に、死んだ方が楽かもしれない、そんなことを考えるほど、耐え難い野外演習の毎日であった。夜間演習は、闇に眼を馴らし、夜襲に耐える戦術と体力を養うためのものであり、なかなか苦しいが、教官はいう。
「如何に苦しくとも、時間が来ればお前達は訓練を終わって兵舎で飯を食って眠れる。実戦になれば、飯を食うことも眠ることもできないのだぞ」
実戦経験、百数十回の体験者である鈴木教官の一言を聞くと誰もが無言となる。
「上官の命令は、天皇陛下の命令と思え。如何に苦しくとも一致団結し、死を以て戦うのだ。それ故にこそ日本軍隊は、特に関東軍は強いのだ」
ことある毎に聞かされる言葉である。
戦闘訓練は、昼夜こもごも第一期の三カ月終了まで続いた。日曜日は訓練は休みである。ただし外出など許されるはずもなく、洗濯や縫物(軍衣、肌着などの綻びを繕ったりするが、自分の分だけでなく、戦友、古兵、班長殿を含めた作業) が山積していて、のんびりする暇はない。営内に日用品や食べ物を売る酒保があって、ピーナッツ、羊羹を立ったままで早食いする位がささやかな楽しみである。毎日の訓練で、定められた食事では我慢し難く、二年兵殿の余した残飯をバケツに集め、交代で炊事場へ納めに行くのであるが、当番の日を待ち兼ねてバケツの残飯を納める途中、隠れて手掴みで食べるのが楽しみであった。
演習の合間に聞く教官の訓話は、何れも実戦の体験を基として話されるので熱心に拝聴した。
中国の歴史は古いが、戦乱、興亡の絶えない国である。中国の言葉に「良鉄は釘にならず、良民は兵にならず」 というのがある。良い鉄は重要な機械、器具を制作するために用いられるが、釘は質の悪い鉄しか使わない。中国の軍人は良民を苦しめる者が多いとのたとえ話である。
戦争では、兵力、物資、作戦、すべて計画通り進むことは期待できない。戦友が戦闘で負傷した場合、救護班、衛生兵を期待しても期待できない。自力で携帯の三角布にて止血し、繃帯をする。止血は負傷の部位より心臓に近い方を強く結束し、出血をできる限り少なくするよう努める。手足が不自然な形をしている場合、骨折が考えられる。正常な形に戻して、骨折したと思われる上、下関節にかけて動かぬよう固定させて結束する。この際、副木などは戦場では望めない。周囲を見渡し何でもよい、臨機応変に活用する。木片、枝木ほか、何もなければ負傷兵などの持っている帯剣、鞘、時には銃を利用することも考える。要は一分、一秒でも早く智恵を働かして止血をし、必要と思う手当てをするか否かが、兵隊の命を左右する。大切なことは応用動作であり、無から工夫次第で有に変えることである。
この訓話は、終戦となるまでの軍隊生活のなかで、否、私の人生をとおして活用に努め、限りなく生活を有意義に豊かにしてくれた教訓ともなった。
戦時中、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という語があった。「無から有に変える」戦時訓練で、鈴木教官の実戦体験より生まれた教訓は、日常の生活のなかでも十分に生かされることで、生涯遵守に努めている。
教育中の外出
勃利入隊後、二週間も過ぎた頃と思う。営内でまだ「前へ進め」「廻れ右」 そんな教育を受けていた頃のある日曜日、竹内班長殿より呼ばれて班長室に行った。
「中村(当時の姓) 二等兵、お前に面会だ。これを持って外出して来い」
そう言われて「外出証」を手渡された。
当時、訓練の最中で外出など思いも及ばぬことであったので、面会で外出と言われてむしろ戸惑ったのであるが、この未知の満洲で、俺に面会など誰であろうと訝った。同郷、同級生の山崎博正君であった。驚きもしたが、懐かしく嬉しかった。反面、今は身分が隔絶している。少尉殿と新兵である。
いくら班長の命令でも外出などとんでもない。ようやく軍隊の規律の厳しさがおぼろげながら分かり始めていた頃で、どうしたものか困惑していると、竹内班長殿より「少尉殿と外出して来い」との一言で、随行して外出する決心をした。
営門で衛兵殿に山崎少尉殿に対する「捧げ銃(ツツ)」 の敬礼を私も同時に受け、勃利の街に出た。なにぶん入隊したばかりの二等兵だから、すれ違う軍人は皆上官である。右に左に敬礼ばかりして歩くので、山崎少尉殿が、「俺が付いているから、敬礼はしなくてもよい」 とたしなめられ、意を強くした。
勃利の街は日本の酒場程清潔ではないが、何とか飯店との看板の店に入り、二人で呑んでいたが、上衣の一つ星が気になるので脱いでしまった。店には大勢の将校、下士官もいて呑んでいたが、洒の勢いも加わって、階級のことはすっかり忘れてしまい、久々の同級生との出会いの心に戻ってかなり酔ってしまった。さすがに帰営時間が気になり、山崎少尉に同行してもらい、無事帰営したまではよかったが、その後が大変だった。
「貴様、初年兵のまだ教育中に外出などしやがって」「営門で俺に捧げ銃をさせた」「生意気だ」「軍人精神を叩き込んでやる」「次は俺の前に来い」
古参兵殿の鉄拳、往復ビンタが交代で息をする間のない程の乱打である。楽あれば苦あり。今迄のほろ酔い気分はどこへやら、激痛とともに入隊初めての教育(私的暴力はすべてそのように表現されていた)を受けたのである。
制裁はその日で終わったと思っていたのであるが、後遺症は何時までも続き、一度睨まれた兵隊は、よかれと行動したことがすべて「要領だ」と悪意に解釈されて逆効果となり、差別されて処分を受ける。嫁に対する姑を連想するが、努力すればする程、反動的に受け取られるので、このまま続けば除隊まで上等兵にはなれないかもしれない。そんなことを消灯後の寝袋の中で考え込む。一等兵位にはなれるだろう。星二つで帰郷して会う悲しそうな父母の顔が瞼の裏に浮かび、涙が急に流れて毛布を濡らす夜も幾度かあったことを覚えている。
山下奉文中将閣下の閲兵
第一期の三ヵ月は、一般歩兵としての基本教育を受けるのであるが、その間、記録せねばならぬ事項として、山下奉文中将閣下(当時)の閲兵を受けたことである。初年度の私たちには、軍の上層部のことは知りようもないが、関東軍総指令官閣下の閲兵を受けるという訳で緊張した。その閣下が私の前に立たれ、言葉をかけられた。質問されたらそれに即答せねばならぬ。その応答の結果で、私たちの班の成績に影響するもののようであった。
「おいお前、私の官、姓名を言って見ろ」私の前でそう言葉をかけられた。
「はい。関東軍総司令官・陸軍中将山下奉文閣下殿であります」教えられた通り答えたつもりであった。
「元気があってよろしい。殿はいらない」 そう言って、次の兵隊の方へ移られた。「閣下」 と言えばよいのにどうしても「殿」が口ぐせで出てしまった。
昭和史によると、当時、牡丹江を中心とする私たちの所轄は関東第二十五軍の指揮下にあり、司令官が山下奉文中将閣下であった。
後にシンガポールを攻略、フィリピンを占領し、後部下の戦争犯罪の責任を問われ、銃殺刑を受けられたのであるが、終生忘れ得ない勃利教育時の思い出である。
私たち同年兵は鳥取県の者が殆どで(松江連隊区)あったが、教官の鈴木少尉殿は、満州事変歴戦百数十回の実戦を経た教官であり、訓練に限らず、人間的にも多大の教訓を得ることができた。戦争中といえども、命は尊いものであるから大切に、しかしいざという時は、皇国のために進んで一命を国のために捧げること。捕虜になれば必ず殺されるが、辱めを受けて殺されるより、自決をするように、如何なる場合でも最後の一弾は自決用に残しておくことを忘れてはいけない。戦闘は死よりも苦しいが、天皇陛下、国民、家族のために頑張ってほしい。私たちは、衛生兵として陸軍施設に転属して別れねばならぬが、一般歩兵と同様の戦闘訓練の修得を受けている。昔は「衛生兵が兵隊なれば電信柱に花が咲く」などと言われて馬鹿にされた。その頃は敬礼以外何も教えなかったからだ。衛生兵といえども、戦闘に なれば銃を持って戦わねばならぬこともある。私たちは立派に戦える実力を持つ教育を受けた。
この勃利における第一期歩兵教育は、約三ヵ月で終了した。
五月中旬頃、衛生兵として杏樹陸軍病院へ配属される。勃利兵舎に別れを告げた私たちは、出迎えの将校殿に導かれて列車に乗り込んだ。勃利駅より北方へ約四十キロ、杏樹駅で下車。駅から南へ二キロ程離れた兵舎に落ち着いた。
軍人勅諭(五力条) の訓諭
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を学ぶべし
一、軍人は信義を重むべし
一、軍人は質素を旨とすべし