WHAT IS NOT(注意事項)

 

魚住研究室は、マスコミ就職講座ではありません。

 メディアを研究することと、日本でのマスコミ就職は、必ずしも連動しません。

研究成果を「メディアはこうあるべきだ」(『べき論』と呼ばれます)と披露したところで、残念ながら関心を示してくれる企業の人事担当者はそう多くはいないでしょう。マスコミ就職を目指す人は、(良くも悪くも)企業としてのメディアが、どのような人材を欲しがっているのか、早い段階で調べ、備えておくことです。外大生でマスコミに進みたい人は、まず専攻の語学力をしっかりと身につけることです。その語学力を駆使して、法制・経済・社会など様々な観点からメディアを論じることができるようになれば、自然と道は開けるはずです。

 

「フェアネス」は目的ではありません。

 当研究室では、「フェアネス(『公平さ、公正さ』などと呼ばれます)」を手段としてとらえ、それ自体を目的化することは避けたいと考えています。研究者として、様々な意見や観点・価値観を尊重する「フェアネス」を心がけることは当然ですし、学生諸君に対しても複眼を持ってもらうべく世の中が実に多様であることを紹介していきます。しかしそれは、あくまでも真理に到達するために有効な手段だからであって、最終的にプラスマイナス・ゼロを目指して欲しいからではありません。「フェアネス」にこだわりすぎると、自分の考えを押し殺してしまいかねませんし、他人の考えに対しても不寛容になってしまいかねません。使い古された言葉ですが、我々の社会で重要なのは、様々な意見の存在と相違を認め、自分とは異なる考え方を尊重することです。様々な意見を持った人々が共存している状態こそ、健全な民主主義社会と言えます。それ故、「フェアネス」の押し売りや、「フェアネス」をふりかざすことには慎重でありたいものです。

 さて、政治権力が法律で「フェアネス」を強要すると、人々は「何がフェアか」について悩むあまり、萎縮し、保身のため言動を控えるようになります(『萎縮効果』と呼ばれます)。そのような状況下では、個性的な意見が発せられることは少なく、それ故「フェアネス」の名のもとに保護しようとした少数意見が生まれないという矛盾が生じます。つまり、フェアネスは法律で実現させるものではないのかもしれない、ということです。

 そこで米国の司法は、放送メディアに対する「フェアネス」の強要を1987年にやめました。いわゆる「フェアネス・ドクトリン」の廃止です。当時、米国のテレビやラジオは、「フェアでない」と指摘されることを恐れるあまり、萎縮していたと言われています。そこで米国の人々は、むしろ発言するための機会(=チャンネル数)を増やしたり、メディアの数そのものを増やす方向で、意見の多様性を実現することにしたのです。それがパブリック・アクセスの源泉でもあります。(その一方で近年は、経営至上主義が米国の放送メディアを席捲しているのも事実です)

米国は良くも悪くもメディア大国です。学ぶべき部分は学び、学ぶ必要のない部分については反面教師としてください。

 

 Photo: The U.S. Supreme Court, Washington, DC (Shinji UOZUMI, 2006)