標準語編

大正8年筑後電機納入記念 大正4年4月1日、倭雄(しずお)兄が、現在の日野鮮魚店の場所で、自転車屋を始めました。

 そしてすぐ現在の福岡銀行の所に引っ越して、昭和9年福岡銀行建設のため現在の場所に移転しました.

 
当時の自転車は貴重品で、お医者さんや、産婆さん位しか持っていませんでした。

 久留米に仕入れに行った弟子が、汽車を初めて見て、びっくりして帰ってきた事もありました。
 
 兄が27歳で亡くなってからが大変でした。私が若かったので銀行の貯金も払い出せなかったのです。

 この写真は大正8年、筑後電機(九州電力の前身)に年12円で貸し出した時の物で今で言うリースのはしりだったのではないでしょうか。一番右が兄、倭雄、2番目が私です。昭和7年頃梨本宮様来町

 昭和の初めまで貸し出していましたが、そのころには吉井町の中も自転車が結構走るようになりました。

 まだ浮羽郡に3台しか車のない頃で、パトカーや消防車ぐらいでした。免許証もまだ何人かしか持たず、事件があったら呼び出されて運転したこともあります。

 消防団の手入の時に、消防車で部品を買いに福岡までよく行っていましたが、すれ違う車もありませんでした。

 自転車の仕入れの時はリヤカーを引いて久留米まで行っていましたが、木箱に4台分も入っていたので重たかったです。今のように部品もすぐに無かったので、鍛冶屋さんみたいに、ふいごを使って作っていました。

 28インチの車体を切って26インチに組み直したこともあります。タイヤの供給のない時は、外側にゴムを張り付けていました、乗り心地の良い物ではありませんでした。 家の前にはまだ軌道が通っていた頃かのー。

 祖父は昭和57年4月亡くなりましたが、昭和63年から4代目が がんばっているからねー。


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