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クリックで拡大 明治24年(一葉が日記を書き始めた)当時、一葉が何新聞を読んでいたかについてはこれまで、二つの説がありました。一つは筑摩書房の「樋口一葉集」(昭和47年発行)の中に掲載されている「桃水氏側から見た一葉」(塩田良平)で、その中に「朝日を月決めでとってはいなかったらしいのである。といふのは、それまでの日記に記載してある新聞記事は東京朝日のものではないのである。まだ正確にはいへないが一葉がとっていたのは朝野か日日ではないかと考へられる」と書かれています。もう一つは、同じ筑摩書房の「樋口一葉全集 第3卷上」(編纂者 塩田良平・和田芳恵・樋口悦、昭和51年12月発行)で、一葉が日記の中に最初に新聞記事のことを書いた明治24年6月11日(木曜日)の記述「今日の新聞上に小舟町二丁め石崎廻艘店所有汽船石崎丸(云々)」の注釈に、その日の「東京朝日新聞による。他紙には報じられていない」となっていることです。この注釈は、従って一葉は東京朝日新聞を読んでいたとは書いていませんが、この注釈を読む限りではそのように解釈されます。
一方は、新聞記事は東京朝日のものではないと言い、他方は東京朝日の記事によるとしています。一体一葉はこの頃、何新聞を読んでいたのでしょうか。日記を見ると、明治25年3月29日のところに「改進新聞早朝に見る」とあり、明治26年1月23日のところにも「我が改進新聞も号外を発しぬ」とありますから、一葉は『改進新聞』を読んでいたようです。それでこの頃の改進新聞を見てみますと、その「石崎丸」の記事がちゃんと載っていました。一葉はこの頃も改進新聞を読んでいたのです(日記「筆すさひ一」の中に「紅綬褒賞下賜 山本しけ」のことが書かれていますが、これも改進新聞に報じられていまして、一字一句全く同じ――東京朝日新聞にも報じられていますが、一葉の書いたのと文面が違っています――ですから、一葉が改進新聞を読んでいたことは間違いないでしょう)。
上の写真は、明治24年4月15日(一葉がその後慕って交流することになる半井桃水氏と初めて会った日)の改進新聞1面です(この下に写したのが、その「石崎丸」のことを報じた日の同紙の、それが掲載された欄です)。




クリックで拡大 明治25年12月7日(水曜日)の日記に「朝日新聞にかねてのせたる小説こさふく風 更に一本にまとめて世に出さんとするを いかて御歌一首めくませ給はらすや」との手紙を受取り「直にかへししたゝめて歌は一首よからねとも林正元をよめるの成けり」ことが書かれていますが、この写真にあるのが、一葉が桃水氏の「胡砂吹く風」に贈った歌です。
一葉は明治26年2月23日(木曜日)の日記に、桃水氏から「胡砂吹く風」を贈呈されて「我か参らせたるは晴々しく口絵の前にありて 林正元か肖像とそ並らひける」と書いていますが、不思議なことに、これで見ますと、小説の始まりの前にそれが置かれていて、桃水氏と一緒に左右に並んだ形になっています。





クリックで拡大 この写真は、その「胡砂吹く風」の中の1ページです。これについても、その明治26年2月23日の日記の中に、このことが書かれていますが、そこには一葉が「花州逸人」と書いたことになっています。しかしこの写真に見るように、それは「衣州逸人」でして「花州」ではありません。2002年7月に発行された岩波書店・日記原本写真版を見ますと、「花」とも見えますが「衣」とも見えます。一葉は「衣」と書いたと思われます。



クリックで拡大 この写真も、その「胡砂吹く風」の中の1ページです。これについても同日の日記に書かれていますが、「莫」の字の置かれているところが違っていますし、一葉が書いたとされる「偉」は「傑」です。これ以外に一葉が書いたとされる「熾」という字と「表」という字も異なっていますが、日記原本写真版で見てもハッキルしません。しかし、いずれにしてもこのように、一葉の日記には(その内容の解釈も含めて)のちの日記編纂者等による誤りがあるようです。


クリックで拡大 この写真は、その当時の官報です。見にくいのですが、当時の官報には、全国の測候所(東京は中央気象台)の観測した当日の天気(明治24年8月10日の天気までは「晴れ」とか「曇り」とかの表記はありませんが、午前6時、午後2時、午後10時――明治24年12月31日までは午後9時――の気温、その観測時間帯の雨量、明治26年10月1日の天気からは「風向き」と「風力」――風力は6段階で表記され、1=軟、2=和、3=疾、4=強、5=烈、6=颶(台風)――も表記されるようになりました)が掲載されています。この写真はその「晴れ」とか「曇り」とかが表記されるようになった8月11日の天気(明治24年8月12日官報)です。
一葉の明治24年8月の日記は10日までしかありませんが、その次の11日の東京の天気(10日午後10時は「雨」)は、午前6時=晴れ・気温24度・雨量2o(10日の夜から降った雨は小雨でした)、午後2時=晴れ・気温30度・雨量0、となっています。
この官報の天気を利用しますと、一葉の日記の全日(865日)の6時間ごとの実際の天気が判ります。
ちなみに一葉の日記の最初の頃(明治24年4月)のそれ(エクセルで表にまとめたものです)を例示しますと以下のとおりです。


クリックでエクセル表

これで見ますと、一葉が(のちに新聞記者が「歌右衛門をやせぎすにした様な」と表現した)桃水氏と初めて会った日(4月15日)の天気は、午前6時=気温5度・それまでの9時間の雨量0、午後2時=気温11度・それまでの8時間の雨量0、午後9時=気温9度・それまでの7時間の雨量3ミリとなっています。この日の日記の最初のところに「雨少しふる」と書かれていますが、この雨は雨量を観測しないほどの雨だったことが判ります。
また、この日桃水氏と別れる時分に降った雨について「かゝりしほとに雨はいや降に降しきり」と書かれていますが、その雨は雨量3ミリの小雨だったことが判ります。
私は、当時一葉が読んでいた新聞、この官報天気、及び官報に記載されている情報等を利用して、一葉の日記に書かれていることについて、事実を中心に調べてきました。その目次は次のとおりです。



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