藤尾の観音様

 八坂村大平部落の藤尾にある観音様は昔から日不見の観音様といわれ、決して見ることを得なかったものであるが、昭和8年5月下旬北安曇郡中部小学校職員組合会が郷土調査を企て、栗岩英治氏を聘し域内各町村の実地調査をした折、同氏ならびに一志茂樹氏の調査に依り優秀なる観音像であることが分かり、たまたま同年8月文部省国宝鑑査官丸尾彰三郎国宝保存会委員荻野仲三郎両氏の入信を機とし調査を乞い、昭和9年1月国宝に編入されたのであるが、右については次のような話が伝わっている。
 藤尾の観音様は昔から木彫等身大の千手観音で行基菩薩の作といい伝えられており、霊験あらたかな観音様で、御堂の前はいうまでもなく、御堂の正面遙かに深い谷を隔てた広津村の六地蔵地籍をさえ乗馬のまま通ると馬落(まおと)しと称し必ず落馬して怪我をしたという。それゆえ土地の人がこれを避けるために六地蔵を建てたものだという。またある年大旱魃で非常に困ったので雨乞をしようとし御前立を御堂の前の石舟(石で造られた大きな水鉢)へ入れると俄(にわか)に大雷雨となり暴風が起こり大あれとなった。今藤尾の北に大崖といって何百尺とも知れない深い急な崖があるが、この崖はその大あれの際できたものだといい伝え、一層この仏像に対する尊信の念を深めている。なお御堂については次のような話が伝わっている。
 お堂は昔武田の番匠が建てたもので、番匠は早く造り上げるためたくさんの「木ぼこ」(木偶)を造り、この木ぼこに手伝わせて一晩の中に建てたという。材木は大平の北方唐花見(からけみ)というところにあった黒檜を用いたという。唐花見は村の西方大町との境にあって今は沼地になっており蘆荻(ろてき:あしとおぎのこと)等が生えているのみであるが、昔は大木が繁茂しほとんど黒檜のみであった。今でも沼の中には大きな木の切り株が残っているという。
 その御堂は一見粗雑な造り方のように見えたが丸柱でなかなか立派な出来で、不思議なことに誰でも毎朝最初にこの堂のどこへでも触れるとぎしぎしと揺れる音がしたが、その後には揺すろうとして押しても音もしなかったという。お堂を建てるに手伝ったといわれた木ぼこも火事の前までは御堂の屋根裏にたくさんあったというが今は一つもない。
 木ぼこは雨乞には非常に役立ったそうだ。旱魃の時は村人は御堂に集まってこの木ぼこを堂前の石舟に沈める。すると必ず雨が降ったという。
 この堂は惜しいことに明治45年火災のために焼失してしまい、今の堂はその後の建造にかかるものである。
 (後略)


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