若一王子神社の矢竹

 八坂村の一ノ瀬の東方城山の西面傾斜地に神明領および矢の川という地名がある。その地に生ずる笹竹は天正年間から社村の神明宮と大町の若一王子神社の祭典の折「いたいぼぼ」(流鏑馬の射手)の引く弓の矢に用いられていた。今でもその竹は一ノ瀬の勝野銀一郎氏の家で切り取り、祭典の当日午前中に勝野氏が礼服着用で持参し神前に供える例となっている。勝野氏は祭の当日は客分の礼を受け第四座に据えられることになっている。この起源は仁科盛遠が15歳の元服の際、この地から出た矢として弓を引いた故、その後引き続いてそこの竹を用いることになったのだといわれている。
 またここから出る萱も社村の神明宮に毎年献じることになっていた。その萱は神明様では2月9日の作初めの神明の箸に用いられた。ところが一時矢竹および萱を献納することを中止されたことがあった。それは矢竹や萱を持参するとき、途中で人にであうとそのであった人は病気になるといわれたためであった。その中止の当時は矢竹の代わりに毎年大豆を6斗ずつ奉ったそうである。その後また矢竹および萱を奉ることになったが、今では神明様へ萱を献上することはすたれてしまった。


← 八坂村の伝説の目次に戻る
■ ホームページに戻る