県立神戸工業高校(定時制)の答辞より 平成9年3月


 

解 説

この文章は、本校情報技術科を平成9年3月に24歳で卒業した女子生徒が書いたものです。

本校の生徒たちがどのような気持ちで定時制高校に学んで卒業していったかがわかるものであり、ここに紹介させていただきます。

また、これに対し担任が卒業式のとき話した文章がありますのでご覧ください。

(情報技術科教諭 西川 敏弘)


 

答 辞

 寒暖の日の繰り返しのうちにも、春の訪れが日増しに感じられる今日、私たちのために、このような心暖かな卒業式を挙げてくださいましたことを、卒業生一同を代表して、厚くお礼申し上げます。

 ご来賓の皆様、校長先生はじめ諸先生方、職場の皆様、友人の皆様、在校生のみなさん、そして今日の日を私達卒業生と同じ想いで待ち望んでいた保護者の皆様、私達は懐かしい学び舎を今、巣立って行こうとしています。

 本日、ここに卒業を迎えることが出来ましたのは、校長先生はじめ、諸先生方の熱心なご指導、ご鞭撻のお陰であることは、言うまでもありません。また、職場の方々の陰ながらのご支援があったからこそです。

 ただ今は、校長先生から励ましのお言葉を賜り、在校生からは心あたたまる送別の言葉をいただき、心より感謝申し上げます。

 今、定時制高校四年間の生活を終え、卒業して行く仲間は四十一名、専修コース生十三名の合わせて五十四名になります。希望に胸をふくらませて本校の門をくぐった私達、にとって、今日の日を迎えることができたことは、何事にも変えがたい喜びです。

 私事になりますが、入学した頃は四年間続くのかと、とても不安な気持ちで一杯でした。周りを見ると女の子は私を含めて二人だけでした。男の子達も皆年下ばかりで話もあまり合いそうになく、楽しく学生生活を送れるのかと心配でした。

 一年生の頃は、学校よりも仕事の方が楽しかったので、学校に行くのが本当に憂鬱でした。学校に行くのがいやな時もありましたが、仕事場の方々が応援してくださったおかげで、無事に進級する事が出来ました。

 二年生の半ば、私は学校で文化祭に向け太鼓の練習をしていました。最初は軽い気持ちで始めたのですが、皆で一つの事をするのが楽しくなり、毎日夜遅くまで練習するようになりました。そして文化祭で舞台にたち、気持ちよく演技ができ、その時の感動は一生忘れる事がないと思います。それからの私は、少しずつ学校も楽しくなり、前向きな姿勢で臨めるようになりました。

 人と接することで、少しずつ心を開くようになり、聞く耳を持てるようになりました。 このことが私にとって自信を持たせ、肩の力が抜け、それがどれだけ楽になるのかを知りました。クラスになじめなかった私でしたが、クラスメイトと自然に話をするようになり、皆、私を受け入れてくれました。いままでは心のどこかに、この歳になり、高校に通って、年齢の違う同級生と一緒に授業を受けることに恥ずかしさを感じ、自分で壁を作っていたのだと思います。

 そうしているうちに、あの恐ろしい阪神大震災が起こり、幼いときから暮していた家が全壊し、私は家族と離れて一人暮らしをすることになりました。それからの毎日は、不安と淋しさが交錯し、何も手につかず、夜も寝ることができない日が多くありました。

しかし、 学校が始まってからは友人と話をしたり、助けあったりすることで気がまぎれ、少しずつ明るく元気になっていきました。

 この時ほど、友人がいることの大切さを感じた事がありません。思えば、私は知らない間に色々な面で友達から学び励まされていました。日本に来て間もないベトナム人のクラスメイトが言葉の壁を乗り越えて努力している様子や、父以上の年齢でありながら定時制高校に学んでいる同級生の姿を見て、自分自身を見つめ直すことができました。このような体験は、私達それぞれの中にあるのではないかと思います。

 これからは自分をしっかりと持ち、壁にぶつかっても自ら立ち上がらなければなりません。しかし、今は卒業という、一つの事を成し得た自信と我慢強さを身につけ、やりとげたという思いで一杯です。

 今日のこの気持ちをいつまでも持ち続け、前に向かって進んで行きたいと思います。

 在校生の皆さんも、数年後、必ず卒業できる事を願っています。

 最後になりましたが、校長先生はじめ諸先生方には、長い間お世話になりました。どうぞこれからもお元気で、ご活躍されることをお祈りしております。

 また、八十年を越える歴史と伝統が、いつまでも輝き発展されることをお祈りしています。

 ここに、卒業生一同の感謝の気持ちをこめて、答辞とさせて頂きます。

  

  平成九年三月二日

  第四十九回卒業生総代

   t・n(情報技術科4年)

 


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