1. 今までの家(積水ハウスのプレハブに住んで25年)

1-01. 積水ハウスの以前の家

積水ハウスに建て替える以前の家は、私の祖父が建てた木造の家だった。
祖父は栃木県から東京に出てきて、当時の大森区(現在の大田区)に住みつき、1937(昭和12)年に現住所の地に尾根に沿った道に面した土地を削って平らにし、木造2階建の店舗兼住宅を建てた。
当時はまだ現在のように家が密集しておらず、近所には畑や空き地が点々とあったと聞いている。

戦前祖父はこの家でクリーニング業を営んでいた、当時クリーニング業というのはお金持ち相手の商売だったようで、地域の名士や有名人のお客様が多かったそうである。
家には脱水槽の直径が1mもある大型の脱水機や、ガスを使うアイロンなどが残っていた。

祖父の建てた家は戦争中に焼夷弾が落ちてきて穴が開いたりもしたし、最後は雨漏りがひどくなり、柱や床の痛みが目立っていた。祖父は私が生まれる前に亡くなり、クリーニング店は既に廃業していたが、この家は私の両親が建て替えるまでの約40年間にわたり私たち一家を守ってくれた家だった。

1-02. 25年前に積水ハウスで建てた家


今まで住んでいた家は、「積水ハウス」のプレハブだった。建てたのは1975年。当時私は都立高校に進学した頃だった。
当時両親は、父が会社員、母がパートで働き、私たち3人の子供を育てていた。
子供は姉、長男の私、弟の3人兄弟である。

そして、ある日両親は積水ハウスの新聞広告に目をとめた。
 「これならば、いまある貯蓄をもとにして建て替えができる。」
 「じゅんちが都立だから教育費がたくさんかからない。」
 「借金返済を考えると建て替えるのは今しかない!」
ということで、両親は家の建替を決意し、積水ハウスと商談に入った。当時高校生だった私は、積水ハウスの営業担当が夜来て遅くまで両親と打ち合わせしていたのを「いったい何しているのだろう」と隣の部屋から覗いていたものだった。

当時の積水ハウスは、いくつかのプラン集があり、その中から土地の形状と予算にあったプランをお客が選ぶというものだった。「建売住宅を買う」というよりも、「建売住宅を建ててもらう」という表現がぴったりではないだろうか。
昔の積水ハウスの家は、今と比べて売る時の手間がかからないと思われる。

積水ハウスの営業とはじめてあってから住んでいた家の解体をはじめるまで、1ヶ月程度というスピード商談だったと母は当時をふり返る。早い!
当時「プレハブ」というと、工事現場で働いている人たちの宿舎の建物というイメージが強かったので、新しい家は工事現場の宿舎のような家になるんだと思っていたら、実際に建った家は、三角屋根がばかりの家の中で、平らな屋根とクリーム色の外壁でいう当時としては珍しいかたちの家であった。
「プレハブでもこのような家が建てられるんだ」と思ったものだった。



 写真は 積水ハウスで建てた家 (解体直前に撮影)
 25年間お世話になりました。ありがとう<m(__)m>

1-03. 積水ハウスの25年間 (その1)

積水ハウスで建てた平らな屋根の家は当時としては珍しく、「あの家は何?」と近所の笑いものになったらしい。当時は家の屋根は三角屋根というのが常識だったから。
でも、うちが積水ハウスで建ててから数年後にお向かいさんが、セキスイハイムで建て替えられた。当時からトラックで運んできたユニットを1日で据付して建てていた。すごいものだと思った。こちらの家も平らな屋根だった。仲間ができた。その後、近所に平らな屋根の家が徐々に増えていった。

当時から積水ハウスはメーターモジュールで、畳、窓等々1m単位で設計されておりひとまわり大きかった。住んでみてすぐ感じたことは、ラジオ放送が聞きにくくなったことだった。木造家屋と違って軽量鉄骨の家だったので、家全体がシールドの役目をしていたためだろう。当時私は、BCLを趣味としていたのでこれには非常に不満で早速屋根にワイヤーアンテナを張った。アンテナ線は天窓から部屋に引き込んだ。その後いろいろなアンテナを張るようになって天窓にケーブルの束が通るようになり、天窓に隙間テープを貼って隙間風をしのいでいた。

家の内装は、和室には壁紙を使ったが他の部屋は合板のみだった。
この合板の壁は手入れが楽だったし、壁をみている限りは25年も住んでいるようには見えなかった。飛び込みでハウスメーカーの人が来たりしたこともあったが、壁を見て「まだ新しいんですね」と言って帰っていったものだった。ただ住み始めた当時は、母が「気分が悪くなることがある」と言ってよく換気をしていた。今ふり返れば「シックハウス」とうものだったのだと思う。

家の外壁は、アルミの板に断熱材と石膏ボードをはりあわせたもののようだ。
(解体したときにちょっと見ただけなので詳しいことはよくわからない)
この外壁の手入れは水で洗う程度とのことだったのだが、結局1回も手入れをしなかった。25年間で若干色がくすんだ程度というメンテナンスフリーのすばらしい外壁だった。
セキスイハイムで建てた斜向かいのお宅もうちと似たような外壁だが、20年以上たった今も未だに塗り替え等をしていない。やっぱりアルミ外壁はいいようだ。

家の駆体は軽量鉄骨だった。時々床下にもぐって観察していたが、鉄骨には錆はなく、鉄骨を基礎に固定しているボルトも錆びずに懐中電灯の光にキラキラと反射していた。
「25年住んでもこの駆体なら鉄骨の家は大丈夫。今度建る時も鉄骨の家」という考えが家族で自然と固まっていった・・・と思う。



写真は25年前の積水ハウスのカタログ「工事編」より

1-04. 積水ハウスの25年間 (その2)

建てた当時に、近所の注目を浴びた積水ハウスの陸屋根は木の桟の上にトタンをはったものだった。ほとんど平らな屋根だが、真ん中付近が数センチ高くなっており、庇についた雨樋に雨水が流れるようになっていた。うちは、2階に鉄骨のバルコニーをつけたので、そこから木製の梯子をかけて屋根に登った。
この木製の梯子も昔の消防団のもの。いつもバルコニーに固定しておいた。風が吹いてテレビアンテナの向きが変わってしまうとよく屋根に登って直したものだった。

屋根に簡単に登ることができたので、屋根の手入れは自分たちでした。
まずトタン板に紙ヤスリをかける。そしてぼろ布で拭いてきれいにした後に、錆止めを塗りペンキを塗った。ペンキがなくなると近所のペンキ屋さんで買ってきて作業再開。二度塗りしてお手入れ完了という具合だった。
ただ、しゃがみながらの作業なので翌朝の腰の痛さにはまいってしまった。
ペンキが乾いた頃に屋根に登ると塗りむらや塗り忘れの部分があったりしたが、近所から見えるわけではないので、そのままにしておいた(^_^;

最初屋根には小さなテレビアンテナをつけてあり、アンテナの配線は1階の居間に1本きているだけだった。私はBCLやCB、パーソナル無線等をしていたので、庇やバルコニーにアンテナをつけていたが、知り合いの電設業者にお願いして屋根上にパイプを建てることにした。屋根の上に高さ7mのパイプを建てて、一番上にパーソナル無線アンテナ遠距離用、次にVHFアンテナ、そしてUHFアンテナ、その下にFMアンテナ、一番下にアンテナ切換器とテレビのテレビの分配器のボックスをいれてそれぞれの部屋に配線した。
ステーは8本張ってその一部を短波放送受信用のワイヤーアンテナと共用した。
庇にはパーソナル無線近距離用のアンテナを建てた。

おかげで屋根の上はケーブルの洪水になってしまったが近所からは見えないので気にしなかった。ペンキ塗りの時には困ったが(^_^;。
各部屋には天窓を通してケーブルを引き込んだ。全室の窓にすべて天窓がついていたのである。そういえば、今回各社のモデルハウスを見ていて思ったのだが天窓つきのサッシがどこにもなかった。何故だろうか?

窓は全室アルミサッシで雨戸がついていた。軽くて開閉の容易な雨戸だった。雨戸をつけない窓はすべて網入りガラスがはいった。積水ハウス以前のに住んでいた家には雨戸がなかったので。雨戸を閉めて部屋が暗くなるということに違和感を感じたこともあった。いつ朝になったのかわからず寝坊するのもいやだったし(^_^;
自分の部屋は台風が来たときくらいしか雨戸を閉めなかった。


1-05. 積水ハウスの25年間 (その3)

駆体や外壁がすばらしい積水ハウスであったが、水回りについてはいろいろと問題があった。まず、水道配管工事の手抜きが判明した。積水ハウス側の話では、床下の水道配管は地中に埋めるとの話だったのだが、住んでしばらくしてから床下にもぐってみると、なんと水道配管が見えた。床下の水道配管は地中になく床下に宙づり状態だった。これは明らかに手抜き工事である。床下の点検口が和室の畳を上げてその下の板をめくって入るようになっていたのでしばらくは気がつかなかったのだった。

あと汚水の排水管の継ぎ目部分が高くなっており、そこに汚物が溜まりマスからあふれ出すとトラブルもあった。知り合いの水道屋さんに直してもらった。
どうも積水ハウスが手配した水まわり工事業者はハズレだったようだ。それをチェックできなかったハウスメーカーにも問題があるのではないかと思う。
外壁や駆体がいくらすばらしくても、ひとつ不具合があれば、会社に対するイメージがダウンしてしまう。とても残念なことだが私はそう思う。

他の部分は、どちらのお宅でもあると思うのだが、風呂釜の故障、トイレの配管の破損、湯沸器の故障などがあった。浴室はユニットタイプだったが、20年くらいたつとユニットの継ぎ目に穴があきはじめた。穴があくたびにガムテープでふさいで、その上からコーキング剤を塗るという応急処置をたびたびおこなっていた。

25年間で家族構成にも変化がある。弟は結婚して家を出て、アパート暮らしの後埼玉に家を買った。
そして、1997年に父が亡くなり3人家族になった。

父が亡くなった頃から、「そろそろうちも建て替えなきゃ」と母が口にするようになった。私はまだ独身。「将来の生活設計がある程度はっきりしなければ建て替えなんかできないよ」とよく言ったものだった。話はいつもそこでとまっていた。

そして1999年。
私は交際相手から別れ話を切り出され・・・・THE END
夢は壊れ去った。寂しい年の瀬だった。

あけて西暦2000年。手もとにはわずかではあるがまとまった資金が残った。

私はひとつの目標をたてた・・・・「家を建て替えよう」


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