良寛 宮沢賢治{ 作品を先に読みたい方は名前をクリックして下さい }

1 二人の共通点

この二人の偉人にはかなり重要な共通点がみられるので、まず最初にその点を見てみたいと

思います。良寛は禅の曹洞宗の開祖 道元の本を読み、それに影響を受けた生き方をしてその生活

の中から漢詩などの独特の芸術を創造しています。それに対して、宮沢賢治は日蓮宗の影響を受け、彼の童話は法華経を熟読しその信仰の中でつくられた文芸です。道元の主著「正法眼蔵」は彼の参禅体験と法華経の影響のもとにつくられた本であることを思えば、良寛と宮沢賢治は創作の原点で相当 近い所にいたと考えることも出来る筈です。法華経は平安時代 最澄によって建てられた比叡山延暦寺では最も重要視された経典ですし、源氏物語は一説によるとこの法華経の小説化であるとも言われます。法華経は真理を説いた経典で、森羅万象のありのままの姿の中に真理はあらわれているのであり、移り変わる無常のこの現実世界こそ、宇宙にある永遠の生命そのものが変身した姿であるにもかかわらず、普通の人は欲望などの煩悩に妨げられて正しく見ることが出来ないとしています。

永遠の生命とは決して宝石か星の様に物資的にここにあるとかあそこにあるとかという形で存在するものではありません。花一輪が咲いているという現象の中に、人間が生きていて、若いときからやがて年をとっていくという中に、石ころが雨にうたれ太陽にじりじりと焼かれ変化していく中に、永遠の生命そのものがあるのです。その生命をこれだと特定することなど出来ません。形がないのですから。そして、この永遠の生命を把握できるのが、我々人間の意識なのですから、永遠の生命とはこの意識と結びついた花一輪、星のまたたき、山や川あるいは机の上のコップや茶碗という様な森羅万象が光と意識のもとにあらわれるという一なるところにあるのです。

文学とこうした思想が無関係だとする論者がいるとすれば、西欧の場合も参考にして下さると良いと思います。

古くはダンテの「神曲」あるいはトルストイやドストエフスキ−の大文学がキリスト教の聖書の絶大な影響の下につくられた文学作品であることは一読された方にはすぐ分かることであります。キリストは「わたしは復活であり、命である」と新約聖書の中で言っています。つまりキリストとは宇宙にある永遠の生命そのものなのであります。

勿論、文学の中にはこうした宗教とは無縁のところで創作されたものも多い。例えば、日本では

石川啄木の詩や小林多喜二の小説などは唯物論の影響が見られるし、西欧ではサルトルやカミュの文学がキリスト教とは無縁の彼等独自の哲学に基礎を置くことは周知の事実ではないでしょうか。シェイクスピアのように、彼の鋭い人間観察がよく現れていて、一見 宗教色がないように思われる作品でも罪の意識という点から見ると、キリスト教の影響が強く感じられるのです。

私がここで言いたいことは優れた作品というのは 宗教であるか哲学であるか、あるいはそれ以外の人間洞察であるにしても、必ず人類の生み出した最も深い知恵を背景としている場合が殆どであるということです。

それなのに、宮沢賢治が熱列な法華経信者であることを知らず、あるいはうっすら仏教の影響を感じても、その基盤になっている経典には殆ど興味を示さないで賢治の作品が分かったとする読者がもしもいるとしたら、{勿論 楽しみ方はそれぞれの人の勝手なのですが}それはちょつとまずいのではないでしょうか。

それに比べて良寛の場合は特に漢詩には禅の影響が露骨に出ているので、彼の詩を読むだけで禅の入門となるくらいのもので、おそらく読者にも良寛の純粋な生き方に共感すると同時にそうした禅的な考えに興味を持って読む方が多いのではないでしょうか。

さて、良寛と宮沢賢治は単に思想的な基盤が似ているというだけでなく、それを自分の生き方に強烈に反映させたという点でも類似性を持ちます。特に現代の日本ではそうした経典や哲学あるいはその他の思想書を、書斎人として読むことが多いと想像されるのに対して、良寛も宮沢賢治もそうした経典に彼等の人生そのものをかけたのです。ここでは伝記を書く意図はなく、むしろ彼等にそれほどのインパクトを与えた思想をもう少し焦点化してみたいと思います。

2 二人の思想的な基盤

宮沢賢治に影響を与えた法華経にしても良寛に影響を与えた禅にしても、「空」の哲学というところをきちんとおさえないと理解が困難でありますし、この「空」の深い哲学こそ二人の偉人を魅了したのではないかと思われます。

それではこの「空」の哲学とは何か。「空」が分かれば何も仏教の多くの経典を読まなくても、仏教の精髄を知ったことになるという程、仏教の中心的な概念であるが難解であります。西欧で一見、まるで違うようでいて、相当似た哲学を打ち立てた偉大な哲学者がいます。スピノザです。彼はまず第一に{実体}という概念を置き、これを神として、この神の存在を幾何学の精神で証明しようとしました。そして、神に酔える人と言われながらも、キリスト教会の神とは違うということで異端とされました。スピノザの思想はゲ−テに影響を与え、後のマルクス主義の唯物論の源流とも言われています。

さて、それでは「空」というのはスピノザの神と似ているのでしょうか、それとも似ていてないのでしょうか。{実体}という概念がそれ自身をそれがささえるものということであれば、「空」の考えはすべてのものには{実体}がないということですから、まるで正反対の考えということになります。しかし、ことはそう単純ではないと思われます。

つまり、分かりやすい例で説明しますと、ここにおいしそうな牛肉があるとします。食べる前に、この牛肉は何から出来ているのかと疑問を持つ少年がいたとします。その父親が科学者だつたら、おそらく牛肉は蛋白質とその他もろもろの成分で出来ているというでしょう。子供はそれじゃ、蛋白質は何から出来ているのかと質問し、父親はそれに誠実に答えるとします。そうすると、この話はさらに続き、結局 牛肉は原子から出来ているというところにたどり着くでしょう。そして、やがて原子モデルが示され、素粒子の世界へと少年を導くことになるかと思います。最近ではクオ−クの存在が理論的に証明されていると聞きます。さて、それで 昔の人が物質の最小単位と考えたアトムはこのクォ−クか、それともさらに下位の物質が存在してそれがアトムなのか、これ以上は科学者のご意見を聞くしかないのでしょうが、私の考えではこのアトム探しは底無し沼みたいなものであるかと思われます。あるいは玉ねぎの皮をむいているような感じに似ているのではないでしょうか。

もし、これから将来 科学者が究極のアトム的なものを発見したとしても、やはりそれは{実体}ではないのです。それはただ、人間の理性の限界と観測の限界を示すだけで、物質の底無し沼の本性は変らないと考えられます。そして、最後は真空につきあたります。現代の物理学で真空とは何かが真剣なテ−マとなるわけです。昔は真空というのが何もないという風に考えられた時代もあります。しかし、今ではこの真空から沢山の素粒子が誕生すると言われています。真空は新たな物質を生む創造的な物質のようです。

さて、牛肉の話からここまでたどり着いたわけですが、これは森羅万象の全ての物質にあてはまりますから、現在の科学では ありとあらゆるものは分子から原子へそして素粒子へそれから、真空へといくわけです。ここのところは仏教の「空」の考え方とそっくりだと思います。しかし、真空が物質を生み出す{実体}だとすると、スピノザの神{ 実体 }に似てきて、スピノザの神が物質の統一性という形に変形されてマルクス主義の唯物論になっていくところが分かるではありませんか。

さて、「空」の哲学とスピノザの神{ 実体 }が似ているのか似ていないのかという話に戻しますと、どうでしょう。スピノザの神{実体}は結局 宝石や石ころや花のように、これこれと形で示すことは出来ません。とするならば、この神{実体 }は形も色も何も現象としてあらわれることのない「空」であるということになって、「空」の哲学と非常に似てくるわけです。

ただ、スピノザの主観の中では何か哲学的な直感があって、彼の感じる神だけを{実体}と概念化したとするならば、{実体}とはスピノザの知性による虚構ということになります。案外、彼が感じていた神の方が本物かもしれません。そうです。神仏とは理性だけで把握されたものはたいていそうした虚構であつて、感じられた神仏こそ本物である場合が多く、これは「空」の哲学も同じです。

つまり、「空」というのは決して西欧的な理性だけで把握された真理ではないということです。スピノザの神には彼の直感と感性による把握があるにしても、あの神の証明を幾何学のやり方で証明しようとする壮大な試みであるエチィカという本に流れる基本は西欧哲学の基本である理性によって、つまり人間の持つ推理能力によつて神を証明しようとする試みなのです。

それに対して、「空」は西欧的な理性はもちろんのこと、それだけでなく、あのパスカルが言った繊細の精神を含めた全人間的なアプロ−チによって、つまりこれを般若の知恵というのですが、この知恵によって把握された真理が「空」なのです。そして、一度 「空」が把握されたあとに、多くの経典によって、「空」のロゴスの面が追求されていくのです。これはスピノザが最初に神の定義をして、あと神の証明をしていくのに似ているといわなければならないかと思われます。

この「空」のロゴスの面を仏教では「法」といいます。「空」はきわめて直感的、感覚的、理性的なまさに全人間的に認識されるものでありますので、「空」そのものを言葉で説明するとなると難しいし、それを実行した多くの経典や道元の「正法眼蔵」などが現代人に理解しにくいと言われるのはそのためではないでしょうか。

スピノザが神に酔える人と言われたくらいに、スピノザは感じ証明した神を信じていたのでありますが、{実体}としての神は後の世になって、物質の統一性と置き換えられて主観の外に客観的に物質が存在するのは当然で、そうした物質の存在が意識を決定するというマルクス主義の唯物論になっていったように、スピノザの神も単に理性だけで把握できるとすると、誤解されるような気がします。

「空」も同じで般若心経や法華経や維摩経を読み、あるいは東洋哲学の本や道元の本を読むだけではロゴスの方面から理解しようという努力のあとのなにかしらの希望は持てたとしても、結局 「空」は座禅という「行」が行われなければ、人間に宇宙の神秘は開示されないのではないかと思います。

「行」は座禅だけとは限らない。宮沢賢治のように法華経を読むことを「行」とした人もいるし、良寛のように道元の本を読み、それなりの悟りの境地を開き、そこに漢詩を創作することを「行」とした人もいるのです。「空」を理解するにはこの様に「行」が必要なのです。長い人生と、善と慈悲に至る道程が「行」になることもあるでしょう。

「空」は永遠に創造する生命そのものなのです。だから、「空」そのものは物質的に存在するものではないのですから、あるとかないとか言えるものではありません。「空」は華の中に自らの命を表現するのです。華が「空」なのです。「空」は生命そのものですから、華として咲くのです。これが東洋の到達した真理ではないでしょうか。この様に、森羅万象の華を咲かせます。これを空華というのだと思います。さらに言えば、「空」そのものは 人間そのもの{身体と心の両方を含めて}にあらわれているのだと思います。だからこそ、キリストは「私は復活であり、命である」と言ったのではないでしょうか。復活とは永遠のいのちを約束したことです。つまり、キリストとは釈迦のように真理に目覚めた人間といえましょう。[ 了 ]

音風祐介