ようじむら通信から

第53号 1998年3月4日発行

 発行 青空幼児村父母会

 村長さん(吉田 成治)の記事より

  送る言葉

ワンダーランドが終わり、ちょっとホッとしたところ、長野オリンピックが賑やかに行われている反面で、今小中高校生による殺傷事件が相次いでおります。

 そして、すぐ「切れる」子どもたちが問題になっておりますが、そのようになる子どもの状況もわかるような気がします。

 一方では、何でも与えられ、要求がみな叶えられてしまう生活があり、我慢を強いられることはあまりありません。

 他方、今の学校はゆとりの教育を唱えながら、授業の量の多さや早さは私の子どもの頃とは比べものにならないように思います。

この様な生活状況におかれながら、遠い未来の幸せのためということで強いられる勉強、キャリア組になる為に、しかし、子ども達はそのキャリアの価値が今どれ程のものなのかよく知っております。

 そんな不確かな、遙か遠い未来の目的を与えられても心は燃えません。

 毎日の目の前の生活には明確な目的を与えられず、そんな心の中にポッカリ空いた空洞をどう埋めればいいのでしょうか。

 たとえば車の場合、ブレーキの利かない車に責任があるのではありません。製造者責任法というものがあるように、欠陥品を作り出したものの責任が問われる時代です。 そう考えると、このような子どもに育てた 親 学校 教育委員会 文部省 etcの責任がもっと問われなければなりませんし、教育のありようをもう一度根本から考えなければなりません。

 ところで 幼児村の子ども達は毎日どんな生活をしているかと言いますと、陣取りをやり出せば一日中陣取り、縄跳びをやりだせばずっーと縄跳び、ソリ遊びを始めれば連日、ひがなソリ遊びという、一見あまり大きな変化のない生活をしております。

 しかし、一人一人の変化を細かく見ていくと各々が一段一段ちゃんと階段を上っているのです。そして、突然大きくジャンプをするのです、それはさながら蛹が蝶になる時に似ています。

 卒村していく父母の皆さんにお願いしたいのは、既製の物差しではなく、子どもをよく知るお父さんお母さん独自の物差しをしっかり持ってほしいということです。

 そして、余裕を持ってお子さんを見守って頂きたいのです。

 社会の物差しと自分の物差しのギャップに悩むことも多くあると思います。そんな時には桂木に気晴らしに来てください。そして、自分の物差しの確かさを確認し、自信を持ってください。桂木で囲炉裏に当たりながら、ゆっくりお茶でも飲みましょう。

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このホームページを作ったお父さんの記事より

卒村にあたって

 

みずほ、かすみ、とお世話になった幼児村もいよいよ残すところ後1ヶ月余りとなりました。最後の幼児村通信は、はじめて父親が書くことになりました。字が下手なためワープロで失礼します。

 

私にとって、幼児村は、自分が結婚した直後からその存在は知っていました。その考え方に共鳴し、自分の子供が出来たら、幼児村へ入れようとその時は思ったものでした。

 

しかし、自分の長男が産まれ、いざ幼稚園の年になると、幼児村のことはすっかり忘れ、長男は、近くの幼稚園に入園させてしまいました。

 

そして、長男が卒園する頃、会社の同僚から幼児村の話を聞き、以前どこかで聞いたような気がすると思い、確かめてみるとやはり、忘れていた幼児村でした。長女みずほは、すぐに幼児村へ入れたいと思いましたが、その当時はテレビで放映されたこともあってか、定員を大幅に上回る子供がいて、何とかやっと入れてもらうことが出来ました。そのときは、なんで長男の健一を幼児村へ入れなかったのだろうとすごく悔やみました。長男は当時、体も弱い方で、引きつけを起こすことも多く少しでも元気になって欲しいと思っていたからです。今では、長男はまもなく中学に入る年になり、スイミングに通ったり現在はサッカーを毎週やっていて、とても元気になりました。熱を出すこともほとんどなくなり、親は安心しています。

 

話を戻しますが、一昨年初夏の愛川に泊まりで行き、高取山に登ったことが昨日のように思い出されます。その当時、次女のかすみは年中さんで、高取山に本当に登れるのだろうかと心配していました。年中さんはただ一人。最悪、父親が途中からおぶって歩くことになるかもしれないと半ば覚悟して登り始めました。いつもは、家ですぐに甘えてだっこしてと言ってくるかすみでしたから。それが、あにはからんや、みんなよりスタートが遅れたから、ちょっと遅かったものの、一人で、どんどん登って行くではありませんか。逆に父親は、まあハイキング程度だろうと考えていたら、階段の連続で、ちょっと甘く見すぎていました。父親のほうがまいってしまうほどでした。かすみは、幼児村のお友達がいたこと、先生や他の親御さんが励ましてくれたことが、大きな勇気につながって登ることが出来たのだと思います。とうとう、最後までだだをこねることなく年中のかすみが一人で歩き通したことは、父親もびっくりしました。普段、幼児村で精神まで鍛えられていたんだなあと、つくづく感謝したいと思いました。また、その日の夜のよるは、先生や、他の親御さんたちと遅くまで懇親を深められたことが、私にとって、幼児村をより一層魅力あるものにしてくれはじめていました。そのとき、先生や一部の父兄の方も知ることが出来ました。そのおかげで、昨年の上大島の泊まりも、楽しく過ごすことが出来ました。山に登ったときは、あいにくの雨でしたが、去年より楽なせいもあり、物足りなく思ったほどでした。

 

幼児村は、親の協力がなければ成り立たない所だと聞いてはいましたが、行事があるときもなかなか協力できませんでした。行事当日は何とか出来るのですが、その前後は仕事の関係もありなかなか協力できず、申し訳ないと思っていました。

 

昨年春頃から、私の仕事も一段落したこともあり、ちょくちょく出来るだけ顔を出すように心がけました。そして、桂木の夕べで、子供二人と初めて六角堂に泊まり、子供は大喜びでした。ドラム缶風呂にも、子供も、親も入りました。私にとっては、生まれて初めてのドラム缶風呂に感激しました。体の芯から暖まってくるような気がしました。ただ、でるときに、脚が引っかかってしまい、もう少し気持ちが良いからと入っていたら、のぼせて出られなくなるところでした。その次の日、石老山へ、先生と初めての山芋ほりも、良い思い出になりました。私の父親がよく山芋を掘ってきますが、この年になって、はじめてその苦労がわかりました。まずなかなか見つからないこと、見つかっても掘るのが大変なこと、掘っても長いのはごくまれで、短く先が曲がっていたり、枝分かれしていたりきれいな物はなかなかとれないこと、など。

そして、最後のワンダーランドのお手伝いが出来たことは、今まで世話になったことの恩返しがやっと少し出来たような気がします。みんなで苦労して作った象さんがきれいに出来たことは、協力したみなさんのたまものだと思います。それぞれの分野に得意なお父さん方がいて、すばらしい物ができたと思います。今回は、最後のワンダーランドのために、自分の子供のビデオ撮りをしてあげたかったため、黒子までの協力は出来ませんでしたが、私が、初めてお父さんコーラスに出たことを、子供たちは、非常に喜んでくれました。ワンダーランド後のご苦労さん会も、子供と共に、新しくいろりの出来た六角堂に泊まることができ、楽しく過ごさせていただきました。

 

いよいよ、あと1月あまりで最後の行事、卒村式が開かれようとしています。しかし残念ながら、今回は、いつものように、滑車で卒村生が登場できるのか心配です。いつもの桂木の河原が工事で、今までの面影がないほど変わってしまっているからです。先生方にそれに代わる良い場所を探してもらうしかないのでしょうか? 準備には出来る限り協力させていただきたいと思っています。最後の行事が、思い出深いものになることを期待しています。

 

最後に、今までの幼児村への恩返しのつもりで、私の作ったインターネットのホームページで、幼児村の紹介を始めました。まだ内容的には不十分かもしれませんが、今後充実させていき、日本だけではなく、広く世界の人たちにも幼児村を紹介していきたいと思います。もし機会がありましたら、ご覧ください。

URLは  http://www.hi-ho.ne.jp/kisato/   です。

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