オーストラリア奮闘記
はじめに
四国の旅行で自転車旅行初めての日記を書いた。ナカナカ好評なのに味をしめ、北海道に続き、過去の旅行分をまとめることも考えた。
しかし、過去の自転車旅行については、日記書いてないので細かいところが入り混じって正確に再現できない。残るは、学生時代までさかのぼるしかない。幸い海外旅行関係の一人旅は、日記が書いてあり、写真もあるので作成可能と判断した。一人旅の海外旅行は、すべてが自分にとって真新しい出来事だった。人に自慢できるような優雅な旅行ではないけど、自分を振り返る意味で、作成を試みることにした。ちなみにすっかり英語力はなくなってしまったのだが・・・。
私の旅行の原点が、実はここにあり、ここでの経験がその後の一人旅を支えている。いやもしかしたら、今の考え方の基本をつくっているのかもしれない。オーストラリア・アメリカ・インドを中心とした7カ国への学生貧乏旅行。全部アルバイトして行った。そのせいで、学生時代は、学校行かずにアルバイトか海外に居た。(何で卒業できたんだ?)
それぞれの旅行が約1ヶ月あまりの為すべての完成の目途は立たないけど、自分を振り返るために頑張って作成に向かう。まずは、オーストラリアから取りかかるぞー!
オーストラリアに行こう!(Come on AUSTRALIA!)
昭和61年の夏、池袋の居酒屋「ふるさと」で、俺は(BRETT)ブレットと二人で酒を飲んでいた。彼は当時25歳。俺は21歳。
「I must go home,soom.」
ブレットは言った。ブレットのビザは、もうすぐ切れる。
大学は入るとき、俺は英語が得意だったので、逆に英文科に行かず、経済学部に行くことにしていた。英語は好きだったので、自分で勉強できるけど、経済は自分で覚えられない。ならいっそのこと経済学部にしようと思い大学に入学した。基本的に考え方がゆがんでいて、日本史好きだから世界史選んだりした。日本史は、本読み続けるけど、このチャンス逃したら世界史覚えられないと思い、世界史を選択。勉強の結果は、試験では世界史が一番得意になったりしていた。でも今は覚えてないけど・・・。
その後英語を勉強するために英会話学校に入学し、ブレットとあった。彼とはすぐ仲良しになり、学校の帰りにはいつも二人で飲みに行っていた。一杯200円の居酒屋が二人のお気に入りで、英会話学校よりも普段一緒に遊びに行くほうがずっと勉強になった。世界中を旅行していた彼には、世界中のことを色々教わり、英語と世界中のこと両方を教わった。逆に俺が日本語と日本について教え、とてもあって飲むのが楽しみで、大の仲良しであった。
しかし、1年ほどの付き合いもここで終わるはずだった。
彼の言葉はとても悲しそうだった。しばらく二人は沈黙していた。しばらくすると、彼は、ニコニコしながらこう言ってきた。
「Come on AUSTRALIA!」
「え・・・」
考えもつかなかった。
「You can do!」
「え・・・・・・・」
それから行くことを前提とした会話が続いた。オーストラリアの各地には彼の親戚や友人が、たくさんいるので心配ないことや、オーストラリア人は親切だから大丈夫との事。
俺自身飛行機に乗ったこともなければ、一人旅もしたことが無い。いったいお金がいくらかかるかわから無いし、勿論その為の金も無い。自信と言うかすべてにおいてやったことが無いので想像つかない。
彼の必死の説得で、試験休みあとの来年の2月からオーストラリアに行くことが決まっていた。会話の流れからその時は、行くしかなくなっていた。
「Next,in AUSTRALIA!」いつのまにか盛り上がってきて、二人は酔っ払っていていやに陽気にオーストラリアのどこを周るかを話していた。
家に帰って一人で考える。大変なことを約束してしまった。「どうすんだよー」「一人じゃこえーよー」
しかし、やると決めたことだし人生一度きり、今やるしかない。「地球の歩き方」買って、アルバイト情報見ながら、気持ちを盛り上げていった。
いよいよ出発!
当時一人旅する人は、自分の周りには一人もいなかったし、聞いたことも無かった。ツアー以外で海外旅行する人たちも・・・。格安旅行会社で、飛行機代は中華民航が一番安かった。往復21万円(当時の正規料金は、50万円だったのだ!)。オーストラリア全土を半周する事に決め、色々調べた。オーストラリアを周るには、高速バスが有効であるとわかった。電車よりも速く、網の目のように走っている。オーストラリアでは、電車以上の交通機関だとわかった。1ヶ月乗り放題で約5万円。飛行機代も含めて総予算40万。今考えると一ヶ月滞在すると思うと何か少ねーよなー。あとは、到着日時と周遊コースをブレットに手紙を書いて、出発の準備をすすめた。
何週間かすると、ブレットから手紙が戻ってきた。彼の実家の住所がそこに書いてあり、何かあったら電話すれば大丈夫との事だった。
期待と不安の中で、出発の日が迫ってくる。楽しそうだけど怖かった。本当に自分で出来るのだろうか?親も心配していたが、ブレットが自宅に遊びに来たとき会ったこともあったし、安心させた。
昭和62年2月25日
荷物をまとめて、成田に向う。出発時刻は午後2時。直行便ではないので、北京に2日間トランジット(飛行機の乗り換え)で滞在してから、メルボルンに向かう。中国では、飛行機会社が用意するホテルに泊まるため、中国については何も調べなかった。だだ、中国は川が凍っていて、オーストラリアは、40度以上の真夏らしい。地球は広い!
初めての成田空港。空港はやたらでかい。「又日本に帰ってこれんだろーなー」不安が頭をよぎる。税関通り飛行機を待った。
「飛行機こえーよー」今の自分の頭の中では、オーストラリアより飛行機が怖かった。鉄の塊が飛ぶこと事態がおかしい。
「行きたくないよー!」
しかし搭乗案内されると足が勝手に歩いていった。飛行機の狭さにびっくりした。もっと広いのかと思っていたら、やたら狭い。席なんか車より狭く感じる。イライラしながら、離陸するのを待つ。飛行機が動き始めた。「こわい、動いている。」周りの人たちは冷静だった。自分が原始人のような気がした。恥ずかしいので冷静な振りをする。速度が上がる。「怖すぎる。しぬー!」多分、顔を引きつらせながらオーストラリアへの第一歩が動き始めた。
まずは中国へ!
緊張の中、飛行機は空に向かって飛び出した。しばらく上昇。雲も厚い積乱雲のため、揺れがヒドイ。このヒドさに耐えながら雲を抜けると、果てしない大空が広がっていた。すごい!雲が下に見える。やわらかい大きな綿が一面に敷き詰められている。白い大海の波が、漂っているよう。これだけて旅行来たかいがあった。初めて飛行機に乗った原始人の気持ちは、恐怖から歓喜に変った。
しばらくすると、スチュワーデスがピーナッツを配りながら歩いてくる。中華民航なので、当然中国人なのだろう。顔を見ると無表情に配っている。俺は、窓際に座っていたので中央の通路から見ると遠くだった。彼女が横にくると、無表情にピーナッツの袋を俺に向かって無言で投げてきた。びっくりした。「ナンダこの女!」腹が立って睨みつけると、スット通過していった。もっとやる気出せよー!
中国は、共産国。どんなに一生懸命仕事をしても、業績をあげても給料とは無関係。共産国の一面を見た気がした。マルクスの唱える共産主義は、本当に人を幸せにするのだろうか?
考え込んで、しばらく窓の外を見入っていると、隣の30歳ぐらいの人が、話し掛けてきた。仕事と旅行兼ねて来ているらしい。旅行会社も一緒という事で、中国のホテルは一緒に行くことにした。
上海で、トラッジット。飛行機を降りて飛行場で、しばらくサンドイッチとコーヒーを頼む。全部で16元。当時1元が15円ぐらいだった。値段は普通かな。でも、元が円と聞こえる発音で、無理に「げん」と発音するより「えん」と発音するほうが相手にも通りも良かった。何か不思議。
再度、飛行機に乗り、北京に向けて再度出発!地図や資料を見ると、「Beiging」か「Peking」と書いてある。なぜ外国人は、こう聞こえたんだろう?それとも何か理由があるのかなー。
北京に着いた。すっかり夜になっていたので、ホテルに向かおうとすると、学生が一人近寄ってきた。ホテルは一緒だった。「ご一緒しましょう。」彼は、オーストラリアのワーキングホリデイで、1年間オーストラリアで仕事するらしい。ワーキングホリデイは、確か26歳以下で1年間は許可されている。
3人一緒にタクシーに乗ろうとする。と言うより、タクシーの運ちゃんに囲まれてしまった。しかも客の取り合いで喧嘩が始まる。50元で話がまとまり、ホテルに向かった。ホテルに向かう途中は、「〜飯店」ばかりだったので、レストランだらけと思った。しかし、ホテルにつくと、列麺飯店と書いてある。飯店は、ホテルだったのだ。何がなんだか訳がわからない事だらけ。ホテルでも対応悪かった。明日の夕方には、オーストラリアには向かうので、取りあえず寝る事にした。中国は、やる気のない人たちばかり。もっと元気出せよー。
「明日は、早起きして楽しい一日を過ごすぞ!」
昭和62年2月26日
朝早起きした。と言うよりも外が明るくなったので目がさめた。外を見ると、今まで暗くて全然わからなかった風景がはっきり見えた。窓の外は、立派な片側3車線道路。まばらに自転車と、車が走っている。しかし車は、全部ベンツ。「一般の人は車乗れないのかなー」
みんなと朝食を取る。本場のラーメン食べたかった。しかし何が書いてあるかさっぱりわからない。「いいや!〜麺だったらラーメンだろー。」
しかし、運ばれてきたものは全然違った。お湯に麺が入っていて、葱が上にのっているという印象。この時食べ物については、嫌な予感がし始めていた。
すぐに北京市内に出かけることにして、タクシーに乗る。2人は良く中国のこと調べていて、いろいろ教えてくれた。「中国では、外国人の物を盗んだのがわかったらその場で銃殺されるんだぜー。だから安心だよ。」変な国。「自転車は成人のあかし、自転車をみんな欲しがっていて、成人すると買ってもらえる。さらに中国の自転車にはナンバーまでついてるんだぜー。」大体日本の車と同じ感覚なんだな。取りあえず繁華街見てこよう。
途中で、3車線のうち2車線が自転車で一杯になって走っているのが見える。車より何百倍も自転車が走っている。中国の朝の通勤ラッシュ「すげー中国だー。」。
広場では、大勢人が集まっていて、太極拳の型をしていた。多分日本のラジオ体操みたいなんだろう。何か中国らしさに嬉しくなってきた。
天安門広場の手前につくと、歩くことにした。15元。やはり昨日のタクシーは、ぼられていたー。
しばらく3人で歩き出すと、突然一緒の学生が、「カメラがない!」叫んだ。タクシーに忘れたらしい。「盗んだら銃殺されちゃうから大丈夫!」俺もいい加減なことを言って慰めた。見つかんなければ、銃殺されねーよなー。オーストラリア1年間の旅の前に彼は、カメラを失ってしまうのだった。
しばらくすると、人がたくさん集まっている。「露天の弁当屋だ!」こんなに集まっているからうまいに違いない。朝ご飯少なかったし、うまくなかったし、くいてー。すぐ買うことにした。0.5元。一般人の店なら、こんなもんなんだろう。われわれが持っているのは、外国人用のきれいな貨幣。彼らのおつりは人民幣だった。汚くて、読めないくらいのぼろぼろの紙幣。しかも人民幣は国外持ち出し禁止だそうだ。
ドキドキしながら弁当をあける。中華料理がつまっているのを想像しながらワクワクしながら弁当の包みを開けてみる。
・・・しんだ。おしまい。捨てたい。
なんとピーマンだけの炒めたものが、ご飯の上に乗っているだけ。しかも、日本のよりすごく青臭くて苦いピーマン。こんなときでも全部食べてしまう。自分の性格が憎かった。
天安門広場は、当時教科書でしか見たことがなかったので、天安門に飾ってある毛沢東の写真見ているだけでも感激した。人々には活気がなく、珍しいのか、ほとんどが無表情で毛沢東よりもちょっと格好が違う3人の日本人を興味深そうに見ていた。しかしこれから数年後、ここで天安門事件が起こるとは知る由もなかった。あんなに無気力に見えた人々が、あれだけのパワーを秘めているとは・・・。
そこから、歩いてすぐの繁華街に行く。人はたくさんいるのだけど、大声で笑う人も、キャーキャー言っている女の子もいない。ただ何人かで一緒に歩いている。「つまらなくないのかなー」こういう人たちは、何が面白くてつまらないのか分からないのかもしれない。
しばらくすると尿意をもよおしたので、トイレを探す。トイレには隣との壁がないと言うことだけは、知っていた。何か活気がないので、せめてその現場だけでも写真とろう。なんだかワクワクしてくる。
「あった!公衆便所だ!」
カメラを取り出し、写真をとってからすぐ出てこようと思った。「これぞ中国の写真をとるのだ!」
中に入る。「えー!」ひるんだ。というより動けなくなった。写真も取れなかったし、尿意もなくなった。
中では、思ったとおり隣との壁はなかった。そこまでは予想通りだったけど、10人ぐらいが座っていた。しかも!入り口に向かって!
座っている人全員がほかにすることもないので、入っている人の方を見る。本や新聞も見ていないので、自然な事なのだろう。全員と目が合ってしまった。いろいろな表情を見ながら、自分のばかげた行為にきづいた。
「御免なさい。もうしません。」
中国では、その後買い物して、いろいろしたけど、あのトイレに勝る出来事はない。今でもあの情景は、頭に浮かんでくる。みんなのふんばっている真剣な顔。こわかったよー!
ついにオーストラリアへ
二人とは町で今後の無事をお互い祈って別れ、衝撃的な中国のトイレを後に、飛行機に乗る。たった二日間なのに、自分にとっては何日分も考えたり経験したりしたようだ。共産主義国中国。初めての出来事ばかりだった。何も予想できなかった。でも、すごく刺激になった。このことが、オーストラリアへのいっそうの期待に繋がる。早く行きたい!
昭和62年2月末日
メルボルンに到着。ついにオーストラリア!快晴だった。飛行場ではどこに向かえば良いか全く分からなかった。なんと言っても何の予約もしていないし、日程も決まっていない。まずは、バスティーポ(バス停)に向かえばよいはず。全行程バスの1ヶ月周遊券を購入して、周ることになっていた。地図を見ても良く分からなかったので、AUSSIE BUSのチケットを買うために一人でふらふらしていた。(オーストラリア人は、自分たちをオージーと呼んでいる)
何人かの人に教えてもらいながら、バスティーポにつく。大きな駅のようだ。バスも何十台もあり、中国と違って活気がある。オージーパスを買って、ブレットに電話する。その時までブレットが迎えに来てくれると勝手に思っていた。
ブレットに電話繋がる。オーストラリア着いたぜー!
しかし、ブレットは今シドニーにいるとの事、俺の帰りはメルボルンから飛行機で帰るので、シドニーに日本に帰る前にシドニーの家によって欲しいとの返答だった。
「そんなー。俺はどうすれば良いんだよー。」
オーストラリアはすばらしい国。まずアデレードに行くのが良い。オーストラリア中に親戚や友達いるので、安心しろ。明日は、そこに泊めてもらい、その後実家のブロークンヒルに行けとのことだった。
何も知らない俺がどうすれば良いのじゃ。でも、アデレードに行くしかない。まず、アデレード行きのバスにチェックインをすることにした。
「アデレードへ」話をするが全然通じない。何デー。英語自信あったのにー。実は、ガイドブックも全部アデレードと書いてあるけど、オーストラリアでは、あ行の発音が違い、常に変になっているのだった。やっと、駅員が、「あー、アデライド!OK!」やっと通じた。
次に、駅員が突然変なことを言ってきた。「トゥダイ」「え・・・」「ト・ゥ・ダ・イ」
俺の頭の中では、「To die」と聞こえていた。つまり、「アドレードに死ににいくのか?」と聞かれていると思った。びっくりした。危なくないと聞いていたのに、そんなに危険なところなのか?頭が混乱してきた。
駅員がしばらくして、時刻表持ってきて説明してくれた。分かった、Todayだ!
オーストラリアは、英語なんだけど、訛りがひどくあ行に気をつけなければ、何もわからない。期待から不安に変ってきた。人々は、みんな日本人にやさしく話し掛けてくるけど、言葉の不安が自分を襲った。
取りあえず近場の安ホテルに泊まり、約束の夜に、ブロークンヒルのブレットの実家に電話した。MAXと言う親戚がいるので明日の夕方6時に駅で待っていてとの事。
取りあえずそうするしかないと思いながら明日の朝アデレードに向かうことにした。
翌朝、起きてバス停に向かう。日本は、2月の真冬。中国も寒かった。オーストラリアは、真夏で空がすごくきれいに見えた。バスも快適で、すごく早いし、エアコンもすごく効いていて寒いぐらいだった。同じような風景がずっと続き、アデレードに到着。
町はとてもきれいで、大道芸人がたくさんいた。みんなやさしく、すぐ話し掛けてくる。さらにびっくりしたのは、一人旅の日本人に良くあうことだった。会うたびに少し立ち話しながら情報交換をした。みんなが共通していることは、みんなやさしい人ばかりで、どこに行っても楽しいということばかり。別に死にに行くようなところもなさそうだ。来て良かった。
MAX家族はやさしさもMAX!
食事もちょっと味が薄いけど、安いしなかなかうまい。泊まるのも、10ドルぐらいからあるし、全部日本とは物価が全然違う。さらにオーストラリアは、日本語を世界一勉強する人口が多い国だそうだ。だから日本人にやさしい人が多いんだと思った。すべてのことが自分を刺激した。
夕方になって、待ち合わせ場所にいると、女性が近づいてきた。MAXは、男性だと思っていたのでびっくりしたが、彼女はMAXの奥さんのCASSYだった。
そこから2人で電車に乗りいろいろ話した。MAXはなんとなくブレットのお兄さんだと思っていたけど、彼の実家近所の人の親戚らしい。ブレットのことも全然知らない。何だよー全くの、あかの他人じゃねーか!
家に着くと、MAXと友達のSTEVEが待っていて、歓迎してくれた。いきなりボーリング場に連れて行かれて、ボーリングした。STEVEがいつも何か意味のわからないことをいつも言っていたのできくと、「ゴジラ」と言っていた。オーストラリアでは、ゴジラと富士山が有名らしい。日本と言えば思い出すらしい。
「Mt.Fuji or Mt.Fujisan?」と聞かれたりした。富士山山になっちゃうだろーが!
翌日は、動物園にみんなで行った。オーストラリアにしかいない動物がたくさんいた。カンガルー・ワラビー・コアラ・タスマニアンデビル。ここの動物園は、放し飼いで動物と隔離されているところより、ずっと楽しかった。カンガルーがあちこちで跳ねていた。
2日間泊めてもらい、ブロークンヒルへ。他人の俺にやさしくしてくれたマックス一家とSTEVEありがとう。泊めてくれたお礼と、日本風の小さい置物たくさん買ってあったので、渡した。
「Japanese seven happy Gods」勝手に命名した七福神の人形に異常に喜んでもらった。「ブロークンヒルのあとは、エアーズロックに行け。帰りに寄れるから又来いよ!」「ありがとう!」嬉しくて涙をこらえながら、バスに乗りブロークンヒルに向かった。
語学力のつく方法
Cassyは、いつも「,isn’t it!」などの付加疑問文を使っていた。これは、多分女性の丁寧語なんだろう。学校では、「〜ですね?」のやわらかい疑問文と教わったけど、多分男が使うとオカマ言葉になるんだろうか?
バスは、3時間に一回休憩で止まる。休憩所で、久しぶりに日本人に会い、3日ぶりの日本語が話せることに喜びを感じていた。お互い自分の出来事を長々と話し合っていると、自分の乗っていたバスが発車していた!
「おい!おい!どうすんだよー!」
さっき話していた日本人に話すと、すまなそうに自分のバスに乗っていってしまった。「薄情ものー!」
荷物もバスのトランクに載せたまま。
「どうしよう。」
店員に話すと、笑いながらバスが止まる次のバスティーポに電話してくれて、荷物は次の駅にとって置いて貰う事になった。次のバスまで3時間ある。乗るバスの時間ブロークンヒルの家族には電話で言っておいたので、大体つく時間分かっている。先方の家族に心配させてしまうので、取りあえず明るく電話した。どうするか聞かれたので、「ヒッチハイクでもしていくよ。」となんとなく答えた。
そうだ。ヒッチハイクだ!いつのまにか自分で答えをだしていた。ヒッチハイクは、中学時代友達同士でキャンプしていて、雨で焚き火できなくなり、固形燃料買いに町までヒッチハイクして以来だ。あの時の経験からヒッチハイクを思いついたのだろう。
オーストラリアは、乗せてくれるのかなー。不安の中、休憩所の前で車に手を振る。5分に1台ぐらいしか走ってこないし、いくら手を振っても止まってくれなかった。
「このままじゃ、まずいなー。」
すると、ガソリンスタンドに止まっている車の運転手が、こっちを見ている。走った。
「ブロークンヒルまで乗せてくれー!」
「OK!BOY!」
「やったー!だんだん映画みたいになってきたなー。」と思った。車に乗ってから3時間はかかる。乗せてくれた御礼に楽しませるために、話しまくった。
タバコを勧められたので、銘柄聞くと、「マルボロ」と聞こえた。実は、オーストラリアでマルボロ吸っていたのでマルボロ持っていると答えると、
「ノー!マリアナ」
「ん・・・・、マリアナ?」
すると葉っぱを出してきて、これだよと言った。
日本でいうマリファナである。つまり麻薬なのだ!びっくりして、吸いながら運転しているのかと聞くと、「SURE(もちろん!)」
麻薬中毒で大丈夫なのかよー!ちょっと怖くなって、ますます沈黙になることを恐れて、3時間話しつづけた。自分がこんなに英語力あるとは知らなかった位に流暢に一生懸命はなしていた。
「教訓。せっばつまれば語学力上がる!」
ブロークンヒルに着いて、バス停のそばのガソリンスタンドで別れた。
ありがとーマリファナおやじー!
最高の体験!ブロークンヒル!!
大体20分程歩くと、バスディーポがあった。「何とか着いた!」ホッとしながら、荷物取りに行くと、荷物は親戚がもって行ったよと言われた。「まじかよー!また荷物無くなるのかよー」
後ろからおじいさんに肩を叩かれた。「Welcome Brokenhill,Toshio!」にこやかなこの老人は、ブレットのお父さんだった。
「Nice to meet you!」
彼は、俺を心配して、バスティーポまで車で迎えに来てくれたのだ。当然彼が荷物を預かっていてくれていた。初めて、オーストラリアで知り合いにあったようですごく嬉しかった。名前は、Kevin。ケビンは、すごく気を使ってくれて、すぐブロークンヒルを案内してくれた。ここは、映画のマッドマックスの撮影現場だったそうだ。基本的には、炭鉱の町。炭鉱の博物館連れて行ってくれた。炭鉱夫の格好させられて写真とってくれたり、オーストラリアのこと説明してくれた。
今までと違って落ち着いた時間を過ごせて、気が楽だなー。
車には、乗用車にもほとんど、日本の四駆のようなフロントガードが付いている。これは、夜走っていると、カンガルーが飛び出してくるのでカンガルーにぶつかった時に、車のダメージ減らす為らしい。道路には、たまに鉄道のレールのようなものを並べたものが埋め込まれている。これは、GRILLと言って、動物が渡って来れないようにするらしい。日本と違って実用的なのだ。
しばらくしてから、家に連れて行かれた。オーストラリアの家は、全部平屋で庭付き。クーラーも良く効いていてとても快適だ。家は、10000ドル(当時オーストラリアドル約100円。つまりたったの100万円!)あれば、建つそうだ。なんて住みやすい国なんだろう。これならローン地獄にはならないよなー。
家に着くと、ブレットのお母さんのShirleyと、電話で話をした近所のおばさんのLeonieが迎えてくれた。MAXはLeonieの親戚だったそうだ。
みんなやさしくて、抱きついて挨拶してきた。なんて優しい人たちなのだろう。感激してしまった。「ここは、今日からあなたの家だと思って」と言ってくれた。リオーニーは、電話のときに早口では通じなかったので妙にゆっくり話してくる。それが滑稽ですごく楽しい。彼女は、最後まで、ゆっくり口調でとても優しかった。それにしてもリオーニーはすごい太ってるよなー。
しばらくするとスーパーに行って、買い物した。「自分のビールを選びなさい。」ビールの説明を聞いた。オーストラリアではミラーかフォスターが一般的。味見して、フォスターをマイビールにした。いきなり1ケース、ケビンが買う。大胆だよー。
他にもいろいろ買ったので、お金を出そうとすると、「ブロークンヒルでは、トシオは財布を出してはいけない。ここでは、息子なんだから。今は、ブレットの代わりさ」嬉しくて震えが来た。こんなに優しい人たちが居るなんて信じられない。あまり人に優しくされたことの無い俺にとっては、こんなに人が他人を相手にやさしくなれるものなのかと思った。
部屋もブレットの部屋をそのまま使った。そして、シェリーに「危ないから、もう絶対ヒッチハイクしないでね。」と、注意された。その晩は、久しぶりにゆっくり寝ることが出来た。明日も楽しくなりそー。
久々にベットでゆっくり寝た。翌朝、朝食をたべると、近所につれられていった。近所中に紹介されて、いつも話の落ちがヒッチハイク。近所のおばさんに「私を今度日本までヒッチハイクで連れてって!」と言われたりした。挨拶終わって家に戻ると、中学生の女の子がたくさんいた。リオーニーには子供のNaomiがいた。発音もナオミ。日本人のようだねと言うと嬉しそうにしていた。
ここに集まってきたのは、彼女の友達らしい。みんなニコニコして握手してくる。何かアイドルになったようだ。色々日本の話や、これまでの話をした。とても楽しい時間だった。
町には、日本人が誰もいない。日本人は、ここにはとても珍しいようだ。2.3年前まで日本人の留学生が何年かここで生活していたことぐらいらしい。しばらくすると、町じゅうがみんな俺の事知っているように話し掛けてくる。有名人になったようだ。
翌日月曜日だったので、みんな朝からいなくなり、散歩でもしてこようとした。するとリオーニーが尋ねて来た。娘のAngieが頭痛いからお見舞いに来てと言っているという。彼女は、ナオミの妹。行ってみると苦しそうにしていた。アンジーは耳元で、「あとでデートしよう」と言ってきた。アンジーは8歳。彼女は、俺とデートしたくて、学校ずる休みしたらしい。「じゃ1時間後待ってるよ。」
アンジーは、自転車でデートしたいと言ってきた。2台の自転車で、公園や湖に行く。彼女は一生懸命説明をしてくれる。彼女を見ているだけでもとても楽しい時間だった。こういうデートは初めてだ。でも、こんなに嬉しいデートも今までなかった。
家に戻ると、ナオミがたくさん学校から友達を連れてきていて、大騒ぎだった。みんなで公園に行くと、チアガールの演技をみんなで見せてくれた。俺もお返しに、中学・高校でやっていた体操を披露した。バク転バク中を混ぜた連続技に、みんな喜んでくれて、何度もやらされ疲れきってしまった。でも調子にのってやっちまうんだよなー。
夜もたくさん人来て宴会のようになる。ナオミが「トシオはバスケットやる?」と聞いてきた。「好きだよ。」「明日の試合一緒に出よう。」えー。いいのかなー。冗談半分でOKと答えておいた。
翌日ナオミの学校にみんなで行き、体育館にむかった。体育館には、たくさん人が居てバスケットが始まった。はじめは応援したけど、本当に「一緒にやろう」と、みんなから誘われた。みんな中学生ぐらい。みんなが気を使ってくれて、相手もニコニコしながら
「It’s international!」
と言いながら、汗だくになってボールを追う。当然我がチームの勝利。途中で一緒に来ていた人たちも混ざってきて変に盛り上がる試合だった。夢の中の出来事みたいだ。その日は、自分が世界一幸せなんだろうと実感していた。
楽しい日々を過ごしているうちに、予定の2泊から、4泊になっていた。このままここにすんでも良いと思うぐらいの日々。でも、このままでは予定が消化できなくなる。
行かなければならなくなった。明日ここを出ることを告げると、みんな悲しい顔をした。しばらくすると、ナオミが、みんなで作ったというオーストラリアの旅行ガイド渡してくれた。全部手書きで、写真まで貼ってある。涙があふれた。「でもまた来るよ。」と言ってその晩は、みんなでディスコに行って、大騒ぎして寝る。
夜夢を見た。みんなが楽しそうに話し掛けてくる。でも変なのは、みんなが日本語を話していた。夢の中まで、俺を楽しませてくれてありがとう。
翌朝バスディーポ迄皆が送ってくれる。アンジーとは、将来結婚の約束をする。シェリーが、ブロークンヒルのタンクトップをくれた。「私は、オーストラリアでのあなたのお母さんよ。」涙が止まらなくなった。バスに乗るのが辛い。なんてすばらしい人たちなのだろう。絶対戻ってくるからなー。
ここでの出来事は自分にとって、すごくショッキングだった。もし日本だったら全くの他人が来てここまで出来るのだろうか?彼らは、当然のように歓迎してくれたし、その歓迎ぶりに無理は感じられなかった。俺が喜ぶ顔を見て皆がもっと喜んでいるよう。人間としてのレベルの高さを、感じる。はっきり言って日本人とは比べ物にならない心の豊かさだ。今も、ナオミにもらったガイドを見ながらこの文をつくっていた。10年以上経っているのに胸が熱くなる。すげー人たちだ。
つづく