/// 鳥羽離宮と安楽寿院  ///  (03/09/30)

大きな鳥羽離宮跡公園、秋の山は手前背後。
 鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が造営
した離宮です。
”離れの宮”いわば御所と云うことになり
ます。京都では他に桂離宮、修学院離宮が
知られますが、そちらは建物も伝わって
いて、特別参観の対象となっていたり
しますが、鳥羽離宮はわずかに”安楽寿院”、
”秋の山”などに往時を偲べるだけに
なっています。

”秋の山”は鳥羽離宮公園に残る小高い山、
説明がなければ鳥羽離宮の築山だった
ことも判らないような存在です。
造営当時の敷地は広く、西端は今の鳥羽離宮
公園辺り、東は竹田駅近くまで1.3km、北は
名神高速道路辺りから南へは1.0kmぐらい
でしょうか。
安楽寿院境内の”院政之地”碑
鳥羽離宮では三代に渡って院政が執り行われ
たことでも知られ、貴族から雑人に至るまで
宅地が与えられて、その様は「あたかも都遷
(みやこうつり)の如し」との記述が残って
いたりします。

その広大な敷地に鳥羽殿と云われた南殿、
北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られた
と云います。その光景は広大な池を有する
庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地でも
あったとか。
でも、池などは築いたと云うよりは、利用
したのでしょう。平安時代の話では、
この辺りは南に巨大な巨椋(おぐら)池も
あった大湿地帯、いたる所に池や沼が点在
していたと云われます。
平家物語には「秋の山の春風に白波瀬に折懸 
紫鷺白鴎逍遥す」とありますが、”秋の山
から見渡す川や池の波立つ瀬に春風が吹き、
サギやカモメが遊んでいる”と云った
意味でしょうか。
紫鷺はアオサギのことでしょうか?
今も昔もカモメと鴨川は絵になるようです。
往時をしのぶ安楽寿院
湿地が広がるこんな地に何故、離宮を造営
したのかってことになりますが、平安京の
正門であった羅城門から真っ直ぐ南へ
進むとこの地に出ます。
それは一般に「鳥羽の作道(つくりみち)」
と呼ばれる道路が延びていました。
このことから鳥羽離宮のことを城南(せい
なん)離宮と呼んでいたとも伝わります。

かつて竹田から回り込んだ鴨川は下鳥羽の
南の辺りで桂川と合流していたと云われ、
この地は陸路、水路の要衝、人、物流の
交差する場所だったようです。

今は何も残らぬ鳥羽離宮跡の中で、辛うじて
往時をしのべるのが安楽寿院。鳥羽上皇が
東殿の境内に建立した御堂、鳥羽伏見の戦い
では官軍の本営となり、錦の御旗がひるが
えった寺院です。
手前から薬師三尊石像と釈迦三尊石像
元々は鳥羽離宮の東殿だった訳ですが、
平安時代後期、保延三年(1137)に覚行
法親王が寺に改めたことに始まります。

重要文化財の本尊は鳥羽上皇の念持仏と
伝わる阿弥陀如来座像で、本堂、諸塔などは
後世の再建ですが、この本尊だけは台座の
修理銘により平安時代後期、造営当時の
本尊だと云われます。
定朝(じょうちょう)系の色合いを残し、
胸には卍字が刻まれてあって、「卍の阿弥陀」
として親しまれていました。

観光寺院ではないので境内はいつも
ひっそりとしています。こぢんまりした本堂、
鐘楼、そして南に建つ二層の多宝塔が目に
付きます。その多宝塔は近衛天皇安楽寿院
南陵となっているので、今は宮内庁の管轄
かも知れませんが、天皇陵に多宝塔が
建つのは珍しい光景です。
鳥羽上皇が冠を埋めたと伝わる冠石
西側には鳥羽天皇安楽寿院陵がありますが、
鳥羽天皇は岡崎の地に、こちらも院政期の
建築物で六勝寺の一つ、最勝寺と云われる
寺院を造ったことでも知られます。
そして鳥羽天皇は鳥羽上皇となり白河上皇
の院政を引き継ぐ人物。

ところで、鳥羽僧正って名前を覚えて
おられるでしょうか。
鳥羽離宮の金剛院別当となったために鳥羽
僧正と云われます。
歴史の教科書、カエルやウサギを人物に
見立て遊ぶ絵を描いた人と云えば思い
出されるかも知れません。
そう紅葉で知られた高山寺に伝わる
絵巻物「鳥獣戯画」を描いたその人です。
ただ、全四巻の内、二巻は京都国立博物館に
保管されています。
近衛天皇安楽寿院南陵となっている多宝塔
他に安楽寿院に残るのは、釈迦、阿弥陀、
薬師の三尊形式の三如来石像、如法経塚、
冠石など石像、石仏、そして碁磐梅などが
知られます。
釈迦三尊石像と薬師三尊石像は粗末な
建物の中にありますが、阿弥陀三尊石像は
京都国立博物館に保管されているそうです。
また、これら石像には歯痛平癒の信仰が
あるとかで、平癒のお礼に土団子を竹の
皮にくるんで供える風習があったそうです。

如法経塚は重要文化財ともなっている
五輪の石塔で鎌倉中期の典型的な様式、
”八房の梅”とも呼ばれる碁磐梅には
こんな話も伝わります。院政が執り行われ
ていた頃、官吏の風紀も乱れ、囲碁に
興じる者まで出る始末、風紀刷新と
ばかりに碁盤を取りあげて埋め、その上に
梅の木を植えたと伝わります。
やはりこの時代、桜より梅だったようです。
(注:碁磐梅の「磐」の字は安楽寿院に
設置された案内板による表記です。)

今は”安楽寿院”と”秋の山”が辛うじて
鳥羽離宮を偲べる場所。竹田駅から安楽寿院、
そして高速道路建設中の油小路を越えて
名神南インター辺りにかけての鳥羽離宮跡
にはファッションホテルが広がる空間で、
白河上皇、鳥羽上皇もびっくり、想像力が
なければ何もない空間です。

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