/// 武蔵坊弁慶 ///  (02/01/11)

清水寺の弁慶の鉄下駄
 年越しを挟んで義経からの話題の続きと
なりますが、今回は武蔵坊弁慶のお話です。
義経に魅せられてその家来ともなる弁慶
ですが、その出生は書物によって異なって
いたり、異説数多く謎の人物と云えるよう
です。

義経記には関白藤原道隆の子孫である熊野
別当湛増が父で、大納言の姫君が母で、
養父は比叡山の法統につながる高貴な
僧侶の出であるとあったりします。
その弁慶の出生地は今の和歌山県田辺市だ
とかで、弁慶産湯の釜、産湯の井戸とかが
残っていたりするようです。熊野別当と
云う役職は平安後期から流行した熊野詣の
地を管轄する役職、弁慶伝説と熊野詣との
係わりはありやなしやです。

その出生の話がこれまた驚きで、母の
お腹の中から十八ヶ月も経て生まれた
そうな、その赤ん坊は普通の子の三倍も
あり、髪は肩まで伸びて、奥歯も前歯も
既に生え揃っていたと云います。
弁慶が使った鉄の錫杖と杖
父の湛増はそんな鬼っ子でも我が子と
しての愛情を持ち、幼名を「鬼若」と
名付け、京都の北東に位置する比叡山
延暦寺に連れて行き、学問の道へと進ま
せることを決意します。
腕力に勝る鬼若に相撲、力ごとにはかなう
者もなく、やりたい放題し放題と云った
状況で居心地も悪くなった弁慶は延暦寺を
出ます。そして名前が鬼若では具合が悪い
と武蔵坊弁慶と名乗ることになります。
その後、播磨の書写山の堂塔、僧坊を
炎上させたりと悪行を重ね、その悪行の
中での千本の太刀を奪う話題はこの前に
紹介したのでした。

その弁慶にまつわる京都の遺跡を見て
みると、まず清水寺にありました。
清水寺は義経記では君臣契約、つまり
弁慶が義経の家来となることを誓った地と
されています。そこには豪腕、怪力の弁慶が
使ったと云う鉄下駄に鉄の錫杖、鉄の杖、
普通の人間では歩けやしない、持てやしない
って代物です。
三条御幸町通、弁慶石町の弁慶石
ただ、以前は清水の舞台に出る手前に
置かれていたのですが、昨年の秋に
行った時には無かったのです。今現在では
また戻されているかも知れませんが、
何処かに移されたままかも知れません。

次に三条御幸町西入ル、ここは町名も
弁慶石町、高さ1.5m程でしょうか、弁慶が
五条大橋から投げた、また一説には比叡山
から投げた石だとか、伝説ではこの弁慶石
は弁慶が幼き頃住んだ三条京極にあって、
弁慶の遊び石だったと云います。弁慶が
奥州の高館で俗に云う「弁慶の立ち往生」で
最期を遂げた折りに京極から奥州に移され
たと伝わりますが、ある日突然、石が
鳴動したと云います。「三条京極に往かむ」
と云う言葉と共に高館では熱病が蔓延し、
これは弁慶の祟りだと恐れた村人が三条
京極寺に移したと伝わります。
今の京の地では「男児がさわれば力持ちに
なる」とか、「火魔、病魔から逃れることが
出来る」とか云われ、今も道行く人の傍らに
置かれています。変化も激しく人通りも多い
三条通にありますが、ちょっと目立たない
こともあり目に止める人も少ない弁慶石です。

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