/// ここにも義経の足跡 /// (01/12/07)
♪、京の五条の橋の上、大の男の弁慶が…♪、確かこんな歌詞 だったと思いますが、京都の童歌です。太刀千本を奪い取ろうと 考えた弁慶は夜ごとに街を駆けめぐり、九百九十九本の太刀を 手に入れたけれど、一本足りない。五条大橋で太刀を奪い 取ろうと待ちかまえる弁慶、そこへ通りかかったのは法師姿の 義経こと牛若丸、かくして五条の大橋の上での一騎打ち…、 欄干を飛び渡り身のこなしも軽い牛若丸に翻弄され太刀も奪えず 破れた弁慶は牛若丸の家来となる。 これが一般に伝わる話の筋ですが、「義経記」には、一騎打ちと なった場所は五条天神となっているし、また再び清水寺でも 戦ったとも記されています。どちらも伝説の域をでないと云えば そうですが、史実として云えることは、今の五条大橋は弁慶と 牛若丸の時代では今の場所ではなかったと云うことがあります。 地図を見て貰えば判りますが、二条通、三条通、四条通とほぼ 等間隔にある通りですが、四条通と五条通の間隔は妙に広く、 六条通側に偏っています。
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五条大橋の牛若丸と弁慶 そう、今の五条通は平安京五条大路とは づれているのです。今の松原通が平安京 五条大路にあたります。何故にづれたかは 秀吉の都市政策と関わりがありますが、 この話は別の機会に。 五条大橋の一騎打ち伝説は五条大橋では なく「御所ノ橋」だと云う話があります。 大徳寺の東側に今はちょっと大きな溝と しか思えない水の流れがあります。昔は 有栖川と呼んでいたそうですが、その 有栖川が北大路通を越えて少し南へ行った 所に御所ノ橋と云う小橋があったと云い ます。実はこの御所ノ橋が訛って五条の 橋となったとも伝わります。![]()
普段、静かな五条天神 残念ながら今では北大路通より南は暗渠と なってしまっていて、小川、小橋が存在 した面影は全くありません。 でも、古い地図には常磐御前がみそぎを したと伝わる「常磐井」が印されていたり、 弁慶が座ったと伝わる弁慶石も印されて います。ただ、現在ではどうも民家の 裏庭などに存在しているようで、確かめる ことは出来ませんでした。 「牛若丸誕生の遺跡」で紹介した誕生井や ゆかりの地へも歩いて30程でしょうか、 ひょっとしてこちらが一騎打ちの地かも…![]()
義経が道中安全を祈願した首途八幡宮 他に残る義経ゆかりの地として首途 (かどで)八幡宮があります。元の名を 「内野八幡宮」と云い、平安京大内裏の 北東に位置するので王城鎮護の神とも されていました。宇佐八幡宮を勧進した のがその始まりとされます。この地は 金売吉次の屋敷があった所と云われ、 奥州に赴く義経が道中の安全を祈願した 八幡様です。 このことから出発を意味する「かどで」 の由来が広く伝わり「首途八幡宮」と 呼ばれるに至っています。金売吉次の 本名は吉次信高(きちじのぶたか)、 吉次は毎年奥州に赴き砂金を仕入れての 商売をしていたので、俗に金売吉次と 呼ばれていたとか、この吉次の出会いが きっかけで義経は奥州に赴くことになる ようです。![]()
蹴上の大日如来とお地蔵さん 奥州に出向く途中、九条山の坂にさし かかると、坂を馬で駆け下りる平家 武者に出会います。その平家武者に 泥水をはね掛けられ、馬上からの 威圧的な態度に怒った義経はその 九人の平家武者を切り捨ててしまいますが、 怒りも収まった義経は自らの行き過ぎた 態度を恥じ、平家武者を不憫に思い九体の 地蔵様を祀り供養したと伝わります。 今、九条山京阪バス停と蹴上側に ゆかりの大日如来とお地蔵さんが国道脇に 残ります。 京都では牛若丸こと義経にまつわる話、 伝説には事欠かないですが、ここで史実を 眺めてみると、父である義朝が亡くなって 鞍馬寺に預けられたこと、吉次なる商人に 助けられ奥州に渡ったこと、奥州で 藤原秀衡に仕えたことぐらいのようです。 霧の中の伝説かも知れないけれど、 牛若丸は今日も五条大橋のたもとで弁慶と 向き合っています。