/// 琵琶湖疎水とインクライン /// (01/09/05)
琵琶湖疎水は都が東京へと移り、人口も35万の都市から25万人へと激減し 産業も衰退していく中で、京都復興の大事業として計画されたものでした。 その初めての測量は明治14年4月、起工式は4年後の明治18年6月、 竣工式は明治23年4月、9年にも及ぶ大工事でした。 明治5年、旧暦の9月12日、新橋〜横浜間に日本最初の鉄道が開業しますが、 この鉄道工事を含め当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計、監督に 頼っていた中にあって、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の 手による初の事業でした。
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九条山の船溜り近くの疎水 滋賀県の大津市、三井寺近くから長等山を トンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかの トンネルを流れ、日ノ岡山のトンネルを 抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル (2,436)は当時、類をみない長大トンネル でした。 この大事業に際して当時の北垣国道知事は 工部大学、今の東京大学を卒業したばかりの 21才の青年技師を抜擢することになります。![]()
疎水公園に建つ田邊朔郎像 この琵琶湖疎水計画の元々の発案者は 下京区の吉本源之助なる人物と云われて います。この源之助が京都府に宛てた 「新川通船之儀ニ付願」がその物語の始まり です。源之助は友人の菊井重左衛門の東京 から京へ来る度に悩まされる日ノ岡峠越えの 難渋、それによる荷役運賃割の割り増しに よる物価の高騰は、新川を開いて水運を 充実させれば解決すると云う助言の元に 先の願いを提出したのでした。 それまでにも高瀬川を開いた角倉了以が 琵琶湖から高瀬川に新川を開く構想など、 幾つかあったようですが、実現の可能性の ある具体的な計画は、この願いによるものが 初めてだったようです。 明治14年2月、北垣国道が京都府知事に 就任します。北垣知事は就任すると同じく して官営事業を全て廃止し、民間に払い下げ ます。今で云うところの改革の先鞭者です。 そして、琵琶湖疎水計画の実現を決断します。![]()
インクラインを上下した船と台車(復元) その時、北垣は琵琶湖疎水工事計画を題材と した卒業論文を仕上げている田邊(たなべ) 朔朗の存在を知ります。朔朗の情熱に満ちた 話しぶりに北垣知事は21歳の青年技師に 事業を任せることを即座に決断したと云い ます。 こうして田邊朔朗を中心として疎水工事は 始まりますが、未熟な土木技術、余り役に 立たない機械類では、まだまだ人海戦術が 主たる工法で、当然成功を危ぶむ声もあり、 大金を投じての大事業に反対の声も大き かったと云います。工事は難儀を極め、 作業は重労働、一時は刑務所の囚人までも 動員したと云います。![]()
インクライン軌道跡、今は桜の名所 話は逸れますが、その囚人達の再犯率は 非常に低かったと云います。いかに過酷な 重労働があったのかを示す一例です。 計画途中で水力発電事業が計画に組み込ま れるなどの変遷を経て、ダイナマイトと セメント以外の資財は外国製に頼らず、 自前で調達しながらの難工事も明治23年 9月、竣工式を迎えます。 当時の新聞は伝えます。大文字の送り火が 灯され、祇園祭の月鉾、鶏鉾、天神山、 郭巨山が立ち並び、日の丸提灯行列が 行われたと…![]()
今も現役、関西電力蹴上発電所 これにより琵琶湖より京都への水運が 可能になり、九条山より蹴上にかけては、 582mに36mの標高差があり勾配が15分の 1の急であるためインクライン(傾斜鉄道) により三十石船をそのまま台車に載せて 上下させました。 また蹴上発電所で発電された電力は日本 最初の路面電車開業へとつながり、各家に 電灯が灯ることになります。 今ではインクラインは廃止されていますが、 琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川 への本流、そして南禅寺から哲学の道、 北白川に至る分線は上水道、防火用水として、 あるいはインクラインの桜並木、哲学の道を 始めとする水辺に親しめる憩いの場、南禅寺 水路閣は文化財として、竣工110年を迎える 現在も機能している琵琶湖疎水です。