/// 中書島辺り  ///  (04/01/18)

 内陸部なのに島がある、港もある。
正確には過去形で「あった」ですが、かつては蓬莱橋や京橋などで
渡りゆく見ての通りの島であったようです。そして伏見港をとりまく
港町もありました。

今、京都で港町と云われてもピンとこないですが、かつて淀川を経て
宇治川から伏見港にかけては三十石船など幾多の船が行き交い、
陸上輸送が発達するまでは大いに賑わったようです。

島は島だけれど、では”中書”の由来はと云えば、文禄年間のこと、
中務少輔脇坂淡路守が屋敷を構えた所で、中務(なかつかさ)は
中国風に云えば”中書”と言ったので、脇坂侯を庶民は”中書はん”と
呼んでいたそうな、それがいつしか中書島と云われるようになったとか。
維新の歴史舞台、寺田屋
黄門さんと同じか、「黄門」は唐の
役職名で日本の官位では中納言に相当
するので、徳川光圀は藩主を退き、
権中納言に落ち着いたので俗に
”水戸黄門”と云われますが、本来の
意味では徳川光圀だけではなく、
何人もの水戸黄門が存在することになり
ます。ちなみに上杉景勝は会津黄門と
呼ばれていたそうです。

話は逸れましたが、伏見港から町中へは
濠川(ほりかわ)で結ばれていて、
この掘割は桃山時代の伏見城の外堀
でした。
伏見城廃城後の中書島は荒れ地と化して
いましたが、伏見奉行の建部内匠頭が
東柳町、西柳町として、以後昭和39年
まで遊里が続くことになります。
今はその名残でしょう、中書島駅前は
スナックやら現代の遊興の店が密集して
います。

駅前から今も地名として残る東柳町、
西柳町を抜けると濠川に出ます。
そして蓬莱橋を渡ると、その先の商店街は
竜馬通、左に折れると寺田屋です。
濠川支流と十石船
文久二年(1862)四月二十三日、薩摩藩士、
有馬新七ら急進派の三十余人が事を図って
寺田屋に集まっていたところ、これを察知
した薩摩藩主、島津久光は説得に使者を
走らせるけれど、聞き入れもされず、
乱闘騒ぎとなります。世に「寺田屋騒動」と
云われる事件です。
展望台より望む三栖閘門施設
この事件を機に公武合体派と勤皇討幕派の
対立が鮮明になり、いわば歴史の通過点
ともなった寺田屋です。

その後、土佐藩士であった坂本竜馬が隠れ
家とし、慶応二年(1866)一月二十一日、
竜馬が長州藩士の三吉慎蔵と密談中に
伏見奉行所の捕縛の手が迫り来る時には
恋人のお龍の機転により、その難を逃れる
と云う話は良く知られるところです。
何でもその後、竜馬とお龍さんは、
西郷隆盛の媒酌で夫婦となり九州の霧島へ
旅に出ます。それが日本最初の
”ハネムーン”だとか…
でも、この一月十九日には薩長同盟が成立し、
世の中は開戦前夜の雲行き、鳥羽伏見の戦い、
戊辰戦争の二年前のこと、けっして甘い
世情ではなかった筈です。

歴史舞台の寺田屋、その前の濠川には観光
シーズンになれば十石船が運航されます。
さすがに三十石船では大き過ぎるので、
小振りの十石船で月桂冠大倉記念館から
三栖閘門(みすこうもん)までの伏見酒蔵を
眺めつつの船旅が楽しめます。
天武天皇を祀る三栖神社(金井戸神社)
時代により多少異なるけれど一石は2.5俵
だとか、なので十石船はだいたい25俵の
米俵が積める船です。
余計に船の大きさが判らないか???

三栖閘門は水位の異なっていた濠川と
宇治川との間で船舶の航行を助ける施設、
周辺は往時の伏見港が再現され、閘門
資料館、開閉門の上になる宇治川展望台、
みなと広場などが整備されています。

三栖閘門の道すがらには、三栖神社があり
ます。ここの三栖神社は金井戸神社とも
云われ、元々はさらに西にある本来の
三栖神社の御旅所でしたが、地域の隆盛と
共に神社に昇格?、したそうです。
本来の三栖神社には大海人皇子、後の
天武天皇が近江朝廷との決戦に際して、
三栖の村人が、かがり火を焚いて夜道を
照らしたとの言い伝えが残ります。
天武天皇と云えば壬申の乱で知られる人物、
もうそれは奈良時代より前の話になります。

その伝説に由来するのでしょうか、秋には
直径1mもの松明を担ぎ廻る”炬火祭
(たいまつまつり)”の行事が伝わります。

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