/// 平安京と大内裏  ///  (01/04/10)

 平安京は三方を山に囲まれた山紫水明の地にあり、
南北に約 5,299m、東西に約 4,498m の都でした。

その中心は内裏、大内裏と云われた場所です。
内裏は皇居であり、大内裏は官衙(かんが)、今で
云うところの官庁、役所があったところで、
大内裏内に内裏が位置していました。
なお、この内裏、大内裏と云う言葉は平安京造営
当時の言葉ではなく、造営後ニ百年ほど経た史料から
使われ始める言葉のようです。
当時は何と呼ばれていたのでしょうね。

その大内裏は今の地名で云えば北の端が一条通、
南の端が丸太町通、東の端は大宮通、西の端が御前
(おんまえ)通になります。
平安京の通り名ではそれぞれ一条大路、二条大路、
大宮大路、西大宮大路となります。
大内裏には十四の門が構えられていたと云い、
その南の端の中心には大内裏の正門にあたる朱雀門が
そびえ、そこから平安京の端にあたる羅城門まで幅は
約85mの大路が一直線に伸びていたと云います。
広々とした雄大な平安京の姿が目に浮かびます。

平安京の北の端は一条通、南の端は九条通、東の端は
寺町通、西の端は葛野中道辺りです。平安京の通り名
ではそれぞれ、一条大路、九条大路、東京極大路、
西京極大路となります。
東には新京極と云うお土産物店が並ぶ地域、西には
西京極と云う阪急電車の駅とマラソン、駅伝のスタート、
ゴール地点となる西京極運動公園にその名残を留めます。

ちなみに「極」の文字には”きわめる”とか”はて”と
云う意味があるようで、それで「新京極」、「西京極」
の意味合いも納得です。
南には十条通があって、いかにも平安京との関連を想像
させますが、実のところ、この十条通は明治37年に造ら
れた平安京とは全く関係の無い都市計画道路です。
ちなみに今の五条通は平安京では六条坊門小路、今は
松原通と呼ばれる道が平安京の五条通です。
何故に移り変わってしまったのかは別の機会にお話し
するとして、この今の五条通と御池通が他の大路と
比べてやけに道幅が広いのに気づかれると思います。
これは先の大戦での空襲による延焼を防止するために
強制疎開が行われた為です。

 さて、朱雀門は大内裏の正門だと書きましたが、
その朱雀門を入れば朝堂院の各建物が並んでいたと云い
ます。それを模して建てられたのが岡崎にある平安神宮の
応天門、大極殿です。
平安京の大極殿は今の千本丸太町交差点付近に広がって
いたようで、直ぐ北側の公園には「大極殿之址」と
刻まれた碑が建っています。そして交差点の北西角には
説明文を記した案内板が設けられていたり、そこここの
道路の縁石に朝堂院の各建物跡を示す記名があったり、
道路の片隅に跡を示す碑が建っていたりします。

この大極殿跡や朱雀大路にあたる千本通などは観光的には
何も残らない地域ですが、平安京の昔に思いを馳せ牛車が
行き交う光景や大路を行き交う庶民、役人の姿を思い
浮かべることが出来たなら楽しい所です。

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