/// 平安京のむかし ///  (99/12/16)




 京都の通りは碁盤の目のように、
東西、南北に区画された通りとなって
いますが、そのルーツを遡れば平安京に
至ります。今から1200年も昔のことです。

基本的な区割りは、その平安京から受け
継がれているのですが、次第に右京、
地図で云えば左側の地域がさびれ、
町全体が東の地域へと移っていきます。

秀吉の時代には、城下町京都としての
意味を持たせるため、洛中の周囲に
堤防のような、お土居と呼ばれる土塁を
巡らせ要塞化しようとしています。



そして町割りにも手を加え、東西、
南北とも等間隔だった通りに、
新たに南北方向の通りを新たに
通しました。地図で見て貰えば判り
ますが、東西の通りの本数に比べ
南北の通りの本数が多いのが判ります。

正方形を崩す形で南北に走る通りが、
秀吉の都市改造による通りです。

今は駅ビル建設などで判らなくなって
しまいましたが、長さ500mにも及ぶ
京都駅1番線ホーム、この辺りに御土居の
南端がありました。



 平安京の姿は船岡山を基点に計画
されたと伝わります。船岡山の麓に
大内裏(だいだいり)を置き、大内裏の
朱雀門を抜けると、幅28丈(約85m)の
朱雀大路が一直線に南へ羅城門まで
延びていたと云います。

朱雀大路は今の千本通に重なり、
羅城門はJR東海道本線を少し越えた
辺りになります。

そして朱雀大路を挟んで、右手を
右京、左手を左京としました。
今の感覚、地図で云えば右側が左京、
左側が右京になります。



現在、羅城門の東200mには東寺が
ありますが、右京、左京と呼び表す
とうり、平安京は左右対称の都市でした。

故に同じように羅城門から西に
200mほどの所には西寺が
建設されました。両寺は国家鎮護を
願って平安京建設とともに建立され
ましたが、今に残るのは東寺のみです。
羅城門も今は小さな公園に石碑が
残るのみです。



 船岡山の四神相応図について
少し紹介しておきます。
四神とは方角を司る四つの神々で、
北は玄武、南は朱雀、東は青竜、
西は白虎と決められており、
中国の思想です。高松塚古墳にも
これら神々が描かれています。

平安京建設に際しては、多分にこの
思想の影響を受けていると云われて
います。

この当たりはまた機会をみて紹介
しようと思います。

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