/// 談合谷 /// (06/06/02)

 「談合谷」とは今の時世にも通じる地名ですが、そう呼ばれる
この場所は霊鑑寺から東へ山道を登った辺りのこと。
時は「平家に非ずんば人にあらず」と云われた時代のこと。

平家の台頭に伴って、悲哀を味わうこととなった役人、貴族、武士
らが平家打倒の陰謀を企てたのです。
平家物語によれば、法勝寺の執行であった俊寛僧都の鹿ケ谷山荘が
あって、俊寛僧都、藤原成親・成経父子、平康頼、藤原師光
(西光法師)、源行綱、時には後白河法皇も加わって平清盛打倒の
談合が行われたのです。俗に”鹿ケ谷の陰謀”とも云われます。
霊鑑寺横の俊寛山荘地への道
僧侶や貴族、役人はいとも簡単に平家を
打倒できるような錯覚に陥っている
けれど、武士である源行綱には、軍備も
整った清盛軍をそう易々と討ち負かせる
とは思えなかったようです。

もし、この企てが成功すれば、一躍して
大将となることも夢ではないけれど、
成功の見込みがおぼつかない現状を思い
起こす時、迷いだけが駆けめぐる行綱でした。

迷いに迷った末に行綱は夜陰に紛れ
清盛の屋敷に出向きます。
清盛の面前で、いつかの鹿ケ谷山荘での
談合話を打ち明けます。
「にっくきは、俊寛、成親、西光、康頼。
目にもの見せてくれるは、者ども。
いくさの用意じゃ」と清盛は烈火のごとく
怒ります。
山中に建つ”俊寛僧都忠誠之碑”
事が露見し一同は囚われの身となり、
師光は斬罪、後白河法皇は鳥羽殿に幽閉され、
俊寛、成経、康頼は鬼界ケ島に流される
ことになります。

それにしても”談合谷”とはよく云った
ものですが、一説には山中にあったと云う
山科安祥寺の上の堂跡を、世に檀の谷と
呼んでいたのが、誤り伝わり、いつしか
談合谷と称するようになったとも伝わります。
檀の谷であったとしても、その経緯から
談合谷と準えられたとしても何らおかしくは
ない歴史話です。

後日、安産祈願で大赦が行われた折、成経、
康頼は都へ戻ることを許されるも、俊寛は
それを許されなかったと云います。
この当たりのことは、都に残された人々
との愛憎劇が人形浄瑠璃「平家女護島」
などで描かれています。面白いのは時代と
共に浄瑠璃、文学などでの描き方も
異なったりします。
大文字山近辺では珍しい滝、棲門ノ瀧、
島で恋仲を作った成経のために奔走する
俊寛を描いたり、あるいは時として俊寛
自身が大自然の中でたくましく生き抜く
姿を描いたり、また清盛の俊寛の妻に
対する横恋慕を話題としたり…、
どちらにしてもその背景には平家全盛の
時代とその描かれた時代を対比しつつ、
その時代の皮肉のような感じもします。

今は霊鑑寺から登る山中に俊寛僧都忠誠之碑
が建ちます。傍には棲門ノ瀧があり、かつて
如意寺の棲門があった場所だとかで、そう
呼ばれます。如意寺は滋賀県大津の三井寺
(園城寺)の別院で今昔物語にも記される
寺院、かつてこの広大な山中に堂宇が
点在していたことが伝わっています。

その一角に俊寛の唐櫃(からと)と呼ばれる
石組みも残りますが、如意寺の遺構なのかは
定かではないようです。今は山中に寺院が
点在していたとは思えない風景が広がるのみ
の里山で、時折ハイカーが通り過ぎるだけです。

芥川龍之介や菊池寛の小説にも”俊寛”と
云う作品があるので、興味ある方はぞうぞ〜

 滝、俊寛僧都忠誠之碑へは山道になります。

Produce By 京の住人 戻る