/// 千本えんま堂  ///  (02/04/13)

正式な寺名は引接寺(いんじょうじ)。
京都では1100年もの年月を経るうちに、誰ともなく呼び習わされた
ニックネーム、通称が正式なものより幅を利かせていることが
いかに多いかを改めて実感します。
引接寺と云われたって京都に住んでいる者でも判らなかったり
しますが、千本えんま堂と云えば、閻魔法王を祀るお寺と誰もが
知るところとなります。

その閻魔法王は仏師である定朝作と伝わり、司命尊と云う帳面を
持つ検事役と司録尊と云う書記の役目の両脇士を従え我々に睨みを
効かせています。
司命尊が持つ帳面が俗に云う閻魔帳なのでしょうか??

千本えんま堂は千本釈迦堂から北へ歩いて10分ほど、千本通に面し
商店街の一角の歴史と由緒ある寺院ですが、今では境内は駐車場と
なり、仮設のような建物があったりで、名刹の面影はありません。

その起こりは平安初期の漢詩人、歌人としても有名な小野篁卿
(おののたかむらきょう)が自ら刻んだという閻魔法王を祀り小祠を
建てて「閻魔堂」と称したのが始まりと伝わります。
その後、定覚上人が諸人化導引接仏道の道場として引接寺と命名した
とも伝わるので、えんま堂と云う名は元来の名が伝わっているとも
云えます。
名刹、古寺の雰囲気にはほど遠い…
小野篁は冥府と現世を行き来出来た人物と
伝わります。
その入り口が東山にある六道珍皇寺、
そして、今ひとつが千本えんま堂にある
とか…
入り口があれば出口がある訳で、それは
大覚寺前の六道町。
以前に紹介した「六道珍皇寺界隈」でも
書いていますが、東山にも六道の辻、髑髏
(どくろ)町から変わった轆轤(ろくろ)
町など、今に残る地名と云いその奥深さに
唸ってしまいます。
その出口は現世への出口なので「生の六道」
とも云われたりします。
冥府へとどく迎え鐘
小野篁は冥府で閻魔法王と話が出来た
とも云われます。冥府へ行き来できたり、
冥府の門番とも云える閻魔法王に口添え
出来る伝説が伝わる背景には、きっと
小野篁と云う人物は何らかの才能に
長けていた人物なのでしょうね。

やはりと云うのか、歴史を紐解くと
小野篁は嵯峨、淳和、仁明、文徳の各天皇
に仕え、東宮学士、遣唐副使、左大弁など
の職を歴任した役人でもあったようです。
いわば政界の実力者と云ったところ
だったのでしょうか。

また、えんま堂はその閻魔法王が石工に
その刻み方を伝授することによって完成
したと云われる紫式部供養塔があったり
します。
重要文化財の紫式部供養塔
千本えんま堂、閻魔法王と紫式部とが
イメージとして結び付かないですが、
この供養塔は圓阿造との刻銘があり、普通は
この種の塔は十三などの奇数なのですが、
十重塔としても珍しいとかで、重要文化財
にも指定されている塔です。

その供養塔の傍らには花の芯から双葉の
芽が出て、それが普賢菩薩が乗っている
象の牙の形に似ているところから名が
付いたという普賢象桜が春には花を
咲かせます。
また、足利義満はこの桜と狂言を愛でて
「桜のさかりに狂言を行うべし」と毎年
五十石の扶持米を下げ渡したと云われ、
その狂言は「千本えんま堂大念仏狂言」と
して今に伝わっています。
元々は参詣者への念仏法要の意味合いの
濃い狂言だったようですが、次第に芸能の
色彩を帯びて、今では滑稽さを争う仮面劇に
なっています。京都に残る念仏狂言の中で
唯一台詞がある狂言でも知られます。
京都市の無形民俗文化財にも登録されていて、
昨今では桜の頃を過ぎた5月初めに行われる
ことが多い「えんま堂大念仏狂言」です。

今では名刹、古寺の雰囲気にひたることも
叶わぬ千本えんま堂ですが、その歴史を
知れば少しは見方も変わる千本えんま堂です。

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