/// 藤森神社  ///  (03/08/07)

町中の鎮守の森
 京阪電車の墨染駅から歩くこと五分ほど
の住宅街の一画に藤森神社はあります。
一つ北には京阪藤森駅がありますが、
神社へは墨染駅のほうが近いです。
藤森神社と云えば五月五日の藤森祭、
別名、深草祭、そして梅雨時の紫陽花が
特に知られます。
深草祭は平安時代の初め、清和天皇の勅命
により執り行われた「貞観の祭」を起源
とし、今は御輿、鎧に兜の武者行列が練り
歩き、何と云っても一番の見物は駈馬
(かけうま)神事でしょうか。

御所警備の武士、諸藩の乗馬指南役が馬術を
奉納した歴史に端を発するだけあって、
疾走する馬上での数々の妙技は見る者の目を
釘付けにしてしまいます。

平安時代初めより祭の歴史は伝わるのです
が、神社の創建は平安遷都以前に遡ると
云われます。社伝によれば、神功皇后摂政
三年(203)、この地に纛旗(とうき)を
立て、塚を造り兵器を納め祀ったのが起こり
と伝わります。
旗塚の上の”いちの木さん”
纛旗とは軍中の大旗のこと、メインの旗と
云う意味でしょうか。それを裏付けるかの
ように、本殿脇には「旗塚」が残って
いたりします。塚の上には”いちいの木”、
今は枯れた株となっているだけですが、
かつては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛に
ご利益があるとかで、維新の人物、新撰組の
近藤勇も腰痛に悩まされて足しげく
「いちの木さん」に通っていたと云う話も
伝わります。

旗塚は社伝による話ですが、この「旗」は
「秦」につながると云う説もあります。
平安遷都以前にこの地を治めていたのは
紀氏一族でしたが、やがて渡来系の秦氏の
勢力が大きくなって、”真幡寸(まはたき)
神社”が祀られます。「幡」、「秦」、
「旗」、どれも”はた”に関わりを持つ
ようです。

藤森神社は、神功皇后をはじめ、武内宿禰、
素戔嗚尊、別雷神、日本武尊、応神天皇、
仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内
親王、早良親王、伊予親王と十二もの祭神
を祀ります。これを言い換えれば神社が
幾多の変遷を経ている証とも云えます。
かへし石、力石とも…
中には怨霊と恐れられた井上内親王、
早良親王の名も見受けられるようで、
先ほど紹介した駈馬も相撲、騎射、猿楽など
と共に御霊会において怨霊を鎮める行事の
一つだったとも云われるので、やはり何らか
の関わりがあるのでしょう。

この怨霊話に関連しては、桓武天皇が方除け
として平安遷都の際に大将軍社を祀りますが、
東は東天王社、今の岡崎神社、北は今宮神社、
西は花園の今宮神社、南がこの藤森神社の
大将軍社だと云われます。
この今に伝わる大将軍社の社殿は永享十年
(1438)、時の将軍、足利義教寄進の建物と
伝わり、重要文化財に指定されています。
ただ、藤森神社には変遷があると書きました
が、藤森神社と云う名が通るのは室町時代
以後のこと、先の「真幡寸神社」、「藤尾社」、
「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社が
誕生します。
舎人親王は学問の神として篤い
この藤森神社は調べれば調べるほどに、
当時の皇位継承とも絡み合って深みにはまって
ゆきます。種々の歴史、言い伝え、文化が入り
混じっているって感じです。

先般には伏見稲荷神社を紹介しましたが、
面白いことに伏見稲荷大社はこの藤森神社の
氏子地域なのです。では伏見稲荷神社の氏子
地域はと云えば、これが東寺から北側に
広がっているのです。近鉄電車の東寺駅の
近くに伏見稲荷大社の御旅所があります。
何でこんなかけ離れた所に伏見稲荷大社の
御旅所がてあるのか不思議に思っていたの
ですが、今回の話でこの疑問の答えも出た
ようです。

境内は鎮守の森の雰囲気、蒙古兵の首塚、
かえし石、宮廷建築の特徴を見ることが出来る
本殿、拝殿も唐破風の向庇が付いている宮廷
建築、そして伏見名水のひとつ、「不二の水」
が湧き出ていることでも知られます。
”不二の水”は二つと同じ水はないの意
かへし石は別に”力石”とも呼ばれ、江戸
時代より藤森祭の際に巡視に訪れた京都
所司代関係者が、この石を持ち上げながら
拝殿、鳥居をめぐり歩き、その力を披露し
合ったものだと云います。
何故って疑問が湧きますが、力持ちも武門の
証の一つだったのでしょうかね。
大中小と三つあって、それぞれ二百四十キロ、
百二十八キロ、九十六キロあります。
一番小さいのでも持ち上げるのは至難の技に
思えますが…

そうそう、藤森神社は「菖蒲の節句発祥の地」
としても知られ、菖蒲は尚武、勝負に通じると
云われ、勝負を呼ぶ神としての信仰も篤い藤森
神社です。宝物殿には馬の博物館も併設されて
いましたが、近くに淀競馬場があるのは
単なる偶然???

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