/// 御香宮  ///  (03/08/31)

表門はかつての伏見城大手門
 一般には”ごこうのみや”ですが、
”ごこうぐう”とも云われたりします。
社伝によれば、当初は「御諸(みもろ)
神社」と称していたけれど、平安時代の
貞観四年(862)の9月9日に境内から
「香」の良い水が湧き出て、飲めば
たちどころに病も治ったことから、
清和天皇より「御香宮」の名を賜ったと
あります。

でも、今の御香宮から北東へ1km程の
所に古御香宮が残ります。町名も
「古御香町」があり、これを考えると
元々の御香宮の場所は、そちらなのでは
ないかと思ってしまいます。すると今も
湧き出ている「石井の御香水」は何なの?、
ってことになりますが、この辺りは
もともと伏流水が多く、日本書紀には
「俯見(ふしみ)」と記されていますが、
江戸時代には”伏水”(ふしみ)とも
云われたほどで、旧地でも新地でも
清水が湧き出ても不思議ではないですが…
御香宮の由来ともなった香水
この一件をよくよく調べてみると、意外な
事実がありました。豊臣秀吉の伏見城築城
に際して、東北鬼門の守護神として、今の
古御香宮の地に遷されたのでした。
そして、秀吉の夢破れ、関ヶ原の合戦後に
改めて今の地に戻されたのでした。

御香宮の祭神は神功皇后で、これに関連
して「香宮(かしいぐう)編年記」には
弘仁14年(823)、九州は筑前香椎宮から
神功皇后を勧請したとの記述が残ります。
このことから「御諸」の”御”と「香椎」
の”香”を取って組み合わせて御香宮と
した説もあります。

この話は当の社伝には伝わらない部分で、
どちらが正しいのかは判りませんが、
伝わらなかったとしたら、先人達の
それなりの理由があった筈、それが歴史の
一面でしょうか。
伏見義民の碑    伏見奉行跡碑
さきほど9月9日と云う、もっともらしい
日付が登場しましたが、よくよく考えれば、
9月9日は重陽の節句、別名は菊の節句、
起源に由来する清和天皇と関わりある
人物に王城鎮護の徳を持つと云われた、
白菊の翁と云われる人物がありました。
今も御香宮境内には白菊石が残りますが、
何とも微妙に「菊」へのつながりが読み
取れます。

関ヶ原の合戦の後、徳川の世となり、三代
将軍家光の頃に伏見城は取り壊される
ことになりますが、その建築物の多くが
市内の社寺などに寄進されることになります。
二条城の唐門、高台寺塔頭の円徳院は伏見城
化粧殿、今は国宝になっている豊国神社唐門
なども元は伏見城の建築物です。御香宮の
表門も伏見城大手門を移したものでした。
今はひっそりとした古御香宮
中には関ヶ原の合戦の折に、敗北を覚った
鳥居元忠を始めとする多くの武将が城内の
長廊下で自刃しますが、そのおびただしい
血で染まった床板が供養の為もあったの
でしょうか、天井板として社寺に寄進された
部材もあります。この血に染まった板は
京都の十ケ寺ほどに移されたのですが、
今でも三十三間堂近くの養源院、西賀茂の
正伝寺、大原の宝泉院、宇治の興聖寺などで
血天井として見ることが出来ます。

話は逸れましたが、徳川頼房の寄進によって
伏見城から移された御香宮の表門ですが、
三間一戸、切妻造りの本瓦葺き、大きく
豪壮な構えは、伏見城の大手門だった
貫禄十分です。
行かれたならば軒下を覗いて見て下さい。
四つの大きな蟇股(かえるまた:桁を受ける
木組み)を見ることが出来ます。
中国の「二十四孝」を題材にした彫刻で、
向かって右から「楊香」、「郭巨」、
「唐夫人」、「孟宗」が刻まれています。
牛若丸と常盤御前の常盤井も今は石橋
表門から歩むと拝殿に突き当たりますが、
この拝殿も徳川頼宣の寄進によるもので、
一説には伏見城の車寄だったとも伝わったり
しますが、どうも古御香宮から移された
建物のようです。このように主な建物は
徳川家と深い関わりがあり、拝殿などを
よくよく観察すると瓦に三つ葉葵の紋が
入っていたりします。

あと境内には小堀遠州ゆかりの石庭が残り
ます。遠州が伏見奉行に任ぜられた時に、
奉行所内に造った庭園の石組をさきの大戦の
後に移したものだとか、残る手水鉢には
文明九年(1477)の銘が残る非常に珍しい
物だそうです。この庭の北側には弁天池が
あり、この池に架かる石橋は、元々は
「常盤井」の井筒だったと伝わります。
常盤井は牛若丸と、母の常盤御前の逸話が
残る井戸でした。
小堀遠州由来の石庭
造園では名高い小堀家ですが、一面では圧政、
暴政の歴史が残ります。表門をくぐって
直ぐの左手に「伏見義民の顕彰碑」が立って
います。これは天明年間(1781〜88)と云う
から、遠州の後の事ですが、伏見奉行に
任ぜられた和泉守小堀政方(まさみち)の
圧政に耐えかねて、元町年寄、文殊九助ら
七名が幕府に直訴に及びます。

当時は直訴はご法度、七名は囚われの身と
なり獄死することとなってしまいますが、
訴えは取り上げられ、その後、小堀家は領地
没収、お家改易の処分を受けることとなり
ます。
”伏見の戦”碑
このことから伏見の寺院などには、伏見
義民の碑、供養塔などが残り、その歴史を
伝える所も多いです。
この話題だけでもページが出来ますが、
今回はさらりと概略だけに留めましょう。

時を経て、慶応四年一月、御香宮から南へ
少しの所にあった伏見奉行所には土方歳三
らの新撰組、林権助らの会津藩士、そして
久保田備中守らの伝習隊などが陣を構えて
いました。
正月三日、その後の日本、時代の流れを
大きく変えることになる戦いが小枝橋、
伏見奉行所、御香宮を舞台に始まります。
御香宮境内には「伏見の戦い跡」の碑があり
ますが、そう、鳥羽・伏見の戦いです。
このお話は次回にでも…

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