/// 京都御所探訪  ///  (01/04/24)

 京都御所は里内裏の一つでした。里内裏は
本来の皇居の焼失などの理由で仮の皇居として
使われたものを云います。
今の京都御所は南北朝時代の北朝の光厳天皇が
元弘元年(1331)以後に東洞院土御門殿を皇居と
定めたものです。

その後、織田信長が改修を施し、豊臣秀吉が
内裏を創建、徳川家康による造営の際には、
紫宸殿を仁和寺に、清涼殿は南禅寺に移される
などしますが、内裏の整備、拡充は進められます。
ところが、その後度々炎上し今の建物の多くが
嘉永七年(1854)の炎上による再建によって、
安政二年(1855)に再興されたものとなっています。

一般公開の順路に沿うと、まず宜秋門(ぎしゅう
もん)より入ることになります。別名「唐門」、
「公卿門」とも云われる檜皮葺、切妻造の四脚門
です。天皇より「牛車の宣旨、手車宣旨」を賜った
ものだけは車のまま、その奥の御車寄(みくるま
よせ)に向かうことが出来たそうです。

宜秋門
御車寄に続く建物は諸大夫(しょだいふ)の
間と云われ、いわば訪問者の控えの間、
諸大夫の間を回り込むと新御車寄、大正天皇
即位の時に建てられた建物で、天皇、皇后
のみが昇殿を許されるところです。
ここまで来ると朱塗りの柱が目に眩しい
築地塀と月華門を見ることが出来ます。
月華門は紫宸殿の西側の門にあたり、東には
同じ六脚の構造の日華門、正面には天皇の
行幸の際に出入りされる十二脚の承明門が
そびえます。承明門の南側には紫宸殿の正門と
なる建礼門があり、国賓の来訪時などには
開かれます。

諸大夫の間
順路は承明門前を通り、日華門より
紫宸殿前に出ます。紫宸殿は御所の中心と
なる建物です。歴代天皇の即位式や、季節の
節会、元服式、御修法などの儀式が執り
行われる正殿です。
平安時代初期には大極殿で即位式が行われる
のですが、平安時代も中期には紫宸殿で
即位式が行われるようになります。紫宸殿に
登る階段は十八段あって、その昔の天皇は
この「十八段の階」より昇殿していた
そうです。ここの前庭には左近の桜、右近の
橘がありますが、ここ数年の一般公開日では
桜の開花と時期が合わなくて少々残念です。

月華門
承明門より紫宸殿

建礼門
右近の橘を回って、清涼殿に出ます。
平安時代の清涼殿は天皇の日常の住居ですが、
近世では儀式の建物となっていたようです。
その中庭には「呉竹」、「漢竹」が植えられ
ていて、この中庭の西側には水の流れがあり、
それを辿ると僅かの落差の滝口があります。
その昔、警護の武士が控えていたところで、
「滝口の武士」の言葉としても知られます。

清涼殿からは将軍、幕府の使者、諸大名を
迎える小御所に出ます。ここは慶応三年(1867)
十二月九日、王政復古の大号令が発せられた
折りの、いわゆる「小御所会議」の歴史舞台
です。岩倉具視、大久保利通らの討幕派が
もくろんだ集まりで、徳川慶喜の官位辞退や
領地返上を決議し、これがやがて戊辰戦争へ
つながり徳川幕藩体制の崩壊へと結びつくと
云う、激動の一コマを感じることの出来る
建物です。

左・日華門、右奥・紫宸殿
次いで和歌会、講書始などの儀式を行う
御学問所の建物が並び、小御所、御学問所前の
御池庭を見て御常御殿前に入ります。
御常御殿は天皇の日常の居所で、多くの
間仕切りがあるようです。
また御所の中では最も大きな建物ということ
ですが、見学コースからはその全容が望め
ないので、目に見る限りでは紫宸殿が最も
大きく感じられます。

紫宸殿と左近の桜
御所の建物は総じて一回り大きな
建物が多いとの印象を受けます。
御常御殿より北側の御涼所、
御花御殿、さらにその北側の
皇后御常御殿は公開されていない
所です。
御常御殿より御三間脇を抜けると
大きな広場に出て、ここでは毎年
枝垂れ桜が楽しめますが、今年は
開花が早くて、その多くが散って
しまっていました。この広場を
後にすると出口となる清所門です。

清涼殿と漢竹、呉竹
京都御所は例年、春と秋に一般
公開されます。普段は葉書による
参観申し込みが必要ですが、この
一般公開日は面倒な手続きなしで
参観できます。ここも歴史を知って
いれば見方も変わる所のひとつです。

次回の秋の一般公開にでも訪ねて
みて下さい。

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