/// 秀吉と京都 /// (05/12/22)
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織田信長亡き後、天下を握ったのは 豊臣秀吉。大阪と異なり京都での秀吉の 人気は今ひとつの感がありますが、 その京都での足跡をたどってみましょう。 歴史で習うのは「太閤検地」と「刀狩り」、 共に行政国家、天下統一の礎となるもの でしょうか。そして京都では方広寺大仏、 聚楽第、御土居(おどい)、の建築。 方広寺の大仏さんは奈良の大仏に対抗しよう としたのか、高さ六丈三尺と伝わるので、 約19mの廬遮那仏、大仏殿は桁約82m、梁57m、 高さ52mと云われ、東大寺大仏殿より 高かった建物だそうです。 しかし慶長の大地震で倒壊、その後縮小再建 されるも、幾度となく災害、落雷に遭って、 最後は昭和48年(1973)、これはちょっと前の お話なので写真も現存しています。 京の大仏が今に残っていれば、名だたる観光地 となり得たかも知れません。 |
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大きさが大仏なら豪華絢爛さを競ったのが 聚楽第(じゅらくだい)、こちらも今は聚楽廻、 聚楽町と云った地名に名残を留めるだけに なっています。 聚楽第は築後八年で秀吉自身の手によって 破壊されて、その遺構の多くは伏見城へと 移されますが、一部は大徳寺唐門、西本願寺の 飛雲閣として今に残ります。 御土居(おどい)は東は鴨川沿いから上賀茂、 紫野、鷹峯、紙屋川に沿い、南端は東寺にまで 及び、再び鴨川沿いに至る延長約23kmの 区域を、土手、石垣で取り囲み、防備と洪水 対策に供しようとしたものでした。 平安京では実現しなかった外周を取り囲む 城壁のようなもの、これにより秀吉は洛中と 洛外とを区別し、その中心が聚楽第であった ようです。 |
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この時、秀吉は京の町区画の改造も行って います。平安京より残る碁盤の目と云われる 町中の大路、小路、その土地、町割りはほぼ 正方形を形づくっていましたが、秀吉はその 中に南北に一本の小路を新たに入れます。 今、地図を見ると正方形の町並みの中に南北に 小路が走っているのが判るかと思います。 この都市改造が今の町家を生み出したと云え ます。それまでの正方形区画だと奥まった 中心部に空き空間が生じることが多いけれど、 短冊形になったことで土地を有効に利用できる こととなったのです。 そして、それが”鰻の寝床”と云われる間口が 狭く奥行きの長い京町家が誕生することとなり ます。 |
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そして秀吉は、中小寺院を特定の場所に 集めました。寺町、寺ノ内と云われる一帯が それで、これは寺院の統制を意図したもの でしょうか。 また秀吉は伏見に伏見城を築きます。 天下統一の拠点としては既に大阪城が存在して いた訳だけれど、京都での拠点とする為か、 信長の安土城に対抗するためか、伏見の指月の 森(しげつのもり)の別荘を拡張する形で 伏見城は築かれます。権力、財力を誇示する かのような黄金輝く城であったと伝わります。 慶長3年(1598)に秀吉はこの伏見城で亡く なりますが、その後も伏見は城下町であり、 水運の拠点として栄えます。 |
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時を経て徳川時代になり、一国一城の令に より伏見城は廃城となりますが、その遺構は 二条城の唐門、高台寺の表門や観月台、茶室の 時雨亭(しぐれてい)や傘亭(からかさてい)、 豊国神社唐門(元伏見城城門)、御香宮神社表門 (元伏見城大手門)、金地院方丈(元伏見城旧殿) などに見ることが出来ます。 丹念に探せばまだまだ多くの伏見城の遺構も 見つかります。 豊臣秀吉、太閤秀吉と云えば大阪のイメージが 強いですが、京都にも根付く秀吉の歴史です。 ※ 現在、写真の伏見桃山城は遊園地の閉園により 特別公開日を除いて立ち入ることが出来ません。 また、この天守はかつての伏見城とは位置も形も 異なっています。 |