/// 敵は本能寺に在り /// (05/10/31)

油小路蛸薬師下ルにある本能寺跡碑、
「能」の字、「ヒヒ」を忌みて字体が異なります。
 今の本能寺は京都市役所の南側、
御池通を越えて寺町通を少し入った所、
見回すとビルがニョキ、ニョキと建ち並ぶ
一角にありますが、かつては油小路高辻に
ありました。

本能寺は法華宗本門流大本山、妙顕寺
第四世、日斉の弟子だった日隆上人に
よって開かれ、当初は本応寺と書かれて
いました。

妙顕寺第五世の時、日明の信徒に破壊され
永享5年(1433)には六角大宮に移り、
本能寺となります。
その後再び比叡山僧兵の焼き討ちにあい、
六角油小路付近に移り、現在、この地は
”本能寺町”と云う町名として名残を
留めています。

この地が明智光秀の”敵は本能寺に在り”
として、織田信長を弑(しい)し天下を
取った場所、今は歴史を伝える石碑のみが
残ります。
そして、本能寺はさらに後に、豊臣秀吉の
都市区画によって今の地に移されて、
現在に至ります。
寺町通にある現在の本能寺
天正十年(1582)六月一日、明智光秀軍は
毛利氏討伐を名目として亀山城を後にし、
一路備中高松へと軍を進めたのでした。
しかし、この時既に光秀には信長を討つ
ことのみが頭にあったのです。

ここで書いておかないと混乱しそうなので、
ちょっと補足です。この亀山城は丹波の
亀山城のこと、しかし、今は亀岡城跡を
名乗ります。これは明治の時期に三重の
亀山との混同を避けるために改名された
ためです。なので正確にはやはり亀山城跡
と呼ぶべきなのかも知れません。

話はそれましたが、京へと通じる老ノ坂へと
向かう段になり、初めて側近の武将に、
謀反の心中を告げます。この時も幾つもの
逸話が残りますが、書いていると紅葉も
終わってしまいそうなので省略しますが、
一兵卒にまで本能寺襲撃が知らされるのは
桂川を超えた時。
醍醐にある明智光秀胴塚
光秀軍は”敵は本能寺に在り”と、僅かの
手勢で陣を張る信長に襲いかかったの
でした。信長は全くの油断であったの
でしょう。京都周辺にはもう敵はおらぬと
過信していたのでしょう。

もはやこれまでと悟った信長は、寝室の
奥の部屋に隠り、自ら火を放って果てた
のでした。俗に云う”本能寺の変”です。

何故に光秀が謀反を企てたのか、これも
諸説あって混沌としていますが、よく云わ
れるのは光秀は信長に恨みを抱いていたと
云うものです。

鳴かざれば殺してしまえほととぎす。
             (織田信長)
鳴かざれば鳴かしてみようほととぎす。
             (豊臣秀吉)
鳴かざれば鳴くまで待とうほととぎす。
             (徳川家康)
三条通白川橋の南にある明智光秀首塚
戦国武将の性格を当てた一句ですが、
信長の短気さ、今流で云えば部下の意見も
聞かずの独裁者であった信長に、光秀は
日頃から鬱積(うっせき)したものが
あったようです。

時は戦国時代、下剋上の時代、それ相応の
力量を持ち合わせると、天下取りを目指す
のも、その背景にあったのかな、
と思ったりします。

その明智光秀も”洞が峠をきめこむ”
軍勢に”三日天下”、で終わりました。
信長を討った光秀は豊臣秀吉と対峙する
ことになりますが、近江などに軍を分散
させた光秀に対して、備中からの秀吉軍の
動きは速かった。周辺の大方の武将は
態度を明らかにしたけれど、筒井順慶は
洞が峠に陣取り損得を計算、形勢を見極め
ていたと云います。やおら筒井軍は秀吉に
付いて山崎で合戦。
醍醐小栗栖にある明智藪の碑
今も山崎は交通の要衝、阪急電車、JR、
京阪電車、新幹線、国道、名神高速などが
ひしめき合って通過する狭隘(きょうあい)
の地、光秀軍は数で勝る秀吉軍に敗退、
光秀は一旦は勝龍寺に入り、夜陰に紛れ
坂本城を目指すけれど、醍醐の小栗栖
(おぐるす)の竹藪で落武者狩りの土民に
竹槍で襲われ無念の最後を遂げます。
本能寺に信長を倒して僅か十一日目のこと、
いわゆる”三日天下”。

今、小栗栖の地に明智藪として石碑、
そして明智光秀胴塚、粟田口は三条通の
白川橋の南に明智光秀首塚が残ります。
時代の流れ、こうして豊臣秀吉の時代を
迎えることになります。

一連のこの変事によって、”三日天下”、
”洞が峠をきめこむ”、”敵は本能寺に在り”
の三つの諺が登場する歴史物語でした。

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