/// 秀吉の石仏 /// (06/03/01)
かつて吉田山、吉田神社の北側には洛中の荒神口から志賀坂本へと 至る”山中越え”の街道がありました。今は京都大学で分断されて いますが、地図を見ると荒神橋の北より北東方面に斜めに横切る 一本の道を見て取れます。 この道がかつての”山中越え”、または”志賀越え”とも云われる道。 この旧街道が今出川通と交差する辺りに身の丈ぐらいの大きな石仏が 鎮座します。ある日太閤秀吉が北白川の地を訪ねた折、この石仏を 大層気に入ったそうです。 ”良恩寺の手取り釜”の話でもありましたが、秀吉は気に入った ものは手に入れたい、身近に置いておきたい性分だったのでしょうか、 秀吉はその石仏を聚楽第(じゅらくだい)まで運ばせたと云います。 |
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石仏がやって来てご満悦の秀吉では あったけれど、その日から聚楽第では 夜な夜な奇っ怪な鳴き声が響き渡った そうです。秀吉は家来に命じてその 泣き声の主を調べさせると、なんと その泣き声は北白川より運びし石仏 だったそうな。 北白川の里が恋しいのだろうと、 秀吉は石仏を北白川の里に返したそうです。 そのような謂われが伝わる石仏です。 鎌倉時代の石仏で「捨遺都名所図会」に 希代の大像として描かれている阿弥陀像 です。今は車の往来も激しい今出川通に 面しますが、古来”子安観世音”として人々 の信仰が篤く、安産祈願のお参りも絶え なかったそうです。 |
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また、今出川通を隔てての南側、斜めに 横切る旧街道脇にも二体の大日如来が 祀られています。こちらはやや小振りで 人の胸丈ほど、いずれも旧街道筋の 名残を留める遺物のようです。 秀吉と石に関連して、太閤岩を紹介 しましょう。太閤岩と云っても一つの 岩を見ることが出来る訳ではなくて、 秀吉の頃に切り出された石切場です。 場所は大文字送り火で知られる大文字山 山麓です。銀閣寺脇から登ること10分程、 林道から山道に代わり、少し登った台地を 左に下がった奥にあります。 ただ、この道はメインルートから外れて いるので、夏は雑草が生い茂る藪道にあり ます。石切場は普通車なら4、5台が停め られる広さに高さ10mぐらいの切り場と して残っています。 |
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花崗(カコウ)岩と褐簾(カツレン)石を 見ることが出来るそうで、褐簾石は明治 30年に日本ではこの大文字山で初めて確認 された放射線を出す鉱物だそうです。 近くの北白川は白川砂の産地として知られて いました。そう社寺の庭園、境内の敷き砂、 上賀茂神社などの立砂などで使われる白い 砂利です。これも花崗岩、京都にはなくては ならない砂でした。大文字山は他にも雲母、 チャート、ホルンフェンスとか鉱物観察には 良い場所だそうです。秀吉は切りだした 石材を大阪城に使ったのでしょうか?、 この当たりは定かではありませんが、山の 中に残る秀吉の遺跡です。 |