/// 「新」を名乗る社寺、新熊野神社  ///  (01/02/28)

 「新」を名乗る社寺、その三です。
新熊野神社は「いまくまのじんじゃ」と読みます。

平安時代、後白河上皇は平清盛に命じて紀州の熊野から土砂や材木を
この地に運び込み、新たな熊野との意味を込め、新熊野神社を創建したと
伝わります。

応仁の乱で神社は荒廃しますが、創建時に熊野より移植されたと伝わるのが
東大路通に面してそびえる楠です。後白河上皇お手植えと伝わる楠で、
大楠(くすのき)さんと地元では呼び習わされます。
「大楠」、この二文字で「くすのき」と読ませるようです。
熊野の神々が降り立つ「影向(ようごう)
の大楠」とも云われたり、後白河上皇の
お腹の病が治まったいわれから、
「お腹の神様」としての信仰も篤い
大楠です。ちなみにこの大楠は京都市の
天然記念物にも指定されています。

この大楠の他に梛の木も新熊野神社の
神木となっています。京都の神社には
梛(なぎ)の木が植えられていることも
多いです。
椥と云う字を使うこともあるようですが、
ナギの木は容易に切れにくいことから、
縁結びの樹とされ、実は二つ仲良く並ぶ
ことから夫婦円満の樹とされるようです。
藤原定家は「千早振る遠つ神代の椥の
葉を切りに切りても祓いつるかな」と
ナギには災い、病魔、汚れをナギ祓う
霊験があると信じられていたようです。
ちなみに、この辺りの地名は今熊野
椥ノ森町。

また新熊野神社は高倉天皇が中宮徳子の
ために安産祈願をした神社としても
知られ安産の神様としても信仰が
あります。
平安時代には「蟻の熊野詣」と云われる
ように多くの上皇、天皇、貴族達が
熊野に詣でたことが歴史に残っています。
今の時代と違ってそれは難渋苦行の
熊野行きだったと思えるのに、
何故にこぞって熊野に詣でたのか??、
考えれば不思議でならないです。
それほど霊験あらたかな御利益があった
のか…
なかでも後白河天皇は都合三十四回も
熊野詣に出かけているとか、これは歴史に
残る天皇時代の話なので、上皇時代をも
含めると一桁増えるかと云うぐらいの
熊野詣だそうです。

新熊野神社には梛の枝をくわえた八咫烏
(やたがらす)の絵馬があります。
八咫烏は神話の中では神武天皇が熊野の
山中で難渋している時に悪路を導いたと
される鳥だそうです。
ワールドカップが話題となっていますが、
日本サッカー協会(JFA)のマークにも
サッカーボールを足で止めている八咫烏が
登場しています。
八咫烏、よく見ると確かに三本足です。
この八咫烏は三本足、何でも昔、中国では
太陽の黒点をみて、三本足の烏が住んで
いると思ったそうです。日本の歴史書には
三足烏として登場するとか…

また後白河天皇は新熊野神社の他に、
熊野に関連して、若王子(にゃくおうじ)
神社をも創建しています。熊野では
「○○王子」と云う地名が点在しますが、
王子とは摂社、末社を意味するとか、
これらにも何かしらの関連があるようです。
若王子神社は永観堂の守護神として創建
されたのですが、このお話はまた別の
機会に…。

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