/// 竹の寺、地蔵院  ///  (03/01/08)

 洛西の地蔵院は竹の寺とも云われます。
参道から総門にかけて、そして本堂に至るまで竹の道が続きます。
近くの鈴虫寺(華厳寺)も竹の庭があったかと思いますが、
真っ直ぐに天に突き刺さる竹を見るならば地蔵院に軍配があがるかな。
そうそう、こちらの地蔵院は竹の寺ですが、北野白梅町にも地蔵院があり、
そちらは椿の寺として知られます。普通の椿は、ぽとっ、と花ごと落ちる
けれど、椿の寺の五色椿は色とりどりの花びらが一枚づつはらはらと
落ちてゆきます。
地蔵院は近くの鈴虫寺、西芳寺(苔寺)
ほどには知られてはいませんが、そこに
目を向けて見ると奥深い歴史を知ることが
出来ます。
時は南北朝、室町時代、よく知られる
人物では頓知で有名な一休さんが生きて
いた時代です。
この一休さんこと一休宗純ですが、漫画の
世界と実像はかけ離れているようです。

頓知話のイメージは江戸時代初期に刊行
された仮名草子、「一休咄」が大元に
なっていますが、実像は書くのもはばかる
ような、僧侶として、時には人として
あるまじき逸話が幾つも残ります。
しかし、形を見るだけでは判らない、
そこに秘められた真の意味を見いだす
時には、やはり穏やかな風が心を吹き抜け
ます。うわべ、見かけの道徳観を嫌い、
民を省みず遊興に耽る為政者、権威に追従
する宗派禅仏教を痛烈に批判した人物が
一休宗純でした。
地蔵院本堂
その一休宗純が幼少の頃を過ごしたのが
この地蔵院だと云われています。
今も衣笠山地蔵院と号し夢窓国師を開山と
する臨済禅宗の寺院です。

開基は細川頼之(よりゆき)、またまた話は
逸れますが、開山はその仏寺を創建した人物、
開基は財政的に支援した人物、特に禅宗では
檀越(施主)を開基として区別することが
あります。

細川頼之は室町幕府の基礎を築いた人物
ですが、案外知られていないのではない
でしょうか。この一因は明治以降の国家
総動員態勢の中での思想作りの為に頼之を
後醍醐天皇に背いた国賊と教えていた教育
にもよるのかなと思ったりします。
細川石と云われる、細川頼之のお墓
またまた話が脱線しそうなので元に戻して、
頼之は三代将軍義満の管領の命を受け幕府
政治に十二年間の長きにわたり関与する
ことになり、南朝軍を壊滅させ全国制覇を
実現することになります。頼之は武もさる
ことながら知的な将としても知られ、
漢詩文を好み、和歌にも堪能で頼之が
詠んだ和歌十三首は勅選集にも入って
いるほどです。
戦乱に明け暮れ、幕府内の権謀術数と
格闘する中で頼之は宗鏡禅師の門をたたき、
やがては地蔵院を建立するに至ります。
やはり、生きてゆく中で現実に直面し、その
反面で心の安らぎを求めたのが地蔵院だった
のかも知れません。頼之のお墓は遺言の通り
宗鏡禅師の傍に寄り添ってあります。
今は細川石と云われシイの大木に絡み合って
歴史を伝えています。地蔵院の本堂脇の
目立たぬ所にありますが、機会があれば手を
合わせてみて下さい。

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