/// 嘉祥寺から真宗院 /// (03/06/08)
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嘉祥寺(かしょうじ))は天台宗の寺院。 元政庵から更に南へ10分ほどの所にあり ます。隣には深草十二帝陵があり、陵内の 法華堂には後深草天皇をはじめ、伏見、 後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、 後土御門、後柏原、後奈良、正親町 (おおぎまち)、後陽成の十二帝天皇と 栄仁親王の遺骨が安置されているそうです。 通常、天皇陵は一代一つだと思っていた 私にはちょっと驚きの御陵です。 この深草十二帝陵は明治時代まで、古くは 深草法華堂と云われた安楽行院によって 管理されていたけれど、今は宮内庁管轄の 御陵となっています。 初っぱなから話は逸れていますが、今回の 主題はその隣の嘉祥寺です。 今は天台宗の寺院で、本堂に歓喜天、別名は 聖天を祀ることから「深草聖天」とも 云われます。 |
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ちなみに、この大聖歓喜天は日本最古のもの だそうです。歓喜天は仏道の魔を排する神と 云われ、中には男女和合の姿であったりもし、 秘仏とされることも多いようです。 今はそんな嘉祥寺ですが、元々の嘉祥寺は 文徳天皇が先帝の仁明天皇の御霊を弔う ために、嘉祥三年(1850)に御所の清涼殿を 移築して仏堂とし、年号にちなみ嘉祥寺と した真言宗の寺院でした。 当時の嘉祥寺は七僧を置き、朝廷の御願を 修する寺院であったと云います。 貞観三年には西の院、清和天皇の時には 嘉祥寺西院でもって貞観寺を建立、その後の 光考天皇の頃には五種の塔を建てたと記録が 残るほど、南北に500mにも及ぶ境内を有する 大きな寺院であったと云います。 その嘉祥寺も応仁の乱によって堂宇はこと ごとく灰燼に帰し荒廃します。 |
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今の嘉祥寺は江戸時代の寛文二年(1662)に 大僧正空心が、安楽行院の再興にあたり、 聖天像を祀る堂宇を建立し、安楽行院嘉祥寺 と号したことに始まります。 こぢんまりした境内に目立つのは、小さな 境内には似つかわしくない大きな石塔。 かつての安楽行院の十二帝供養塔だと伝わり ます。 その嘉祥寺のすぐ東に位置するのが真宗院 (しんじゅいん)、浄土宗西山深草派の 寺院です。鎌倉時代に後深草天皇の発願に より、円空立信を開基として建立されます。 円空立信は歌人としても知られますが、 あの生涯にわたって、独特の微笑み深い 12万もの円空仏を彫った江戸時代の禅僧とは 別人です。 この真宗院も例に漏れず、旧地と現在の地が 異なっていたりします。 時の権力に翻弄されたと云えばよいのか、 はたまた寺院を時の権力が利用したと云う 側面もあるので、この当たりは後世の私達が 検証しているに過ぎないのでしょうね。 |
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この真宗院は伏見奉行の圧政に直訴をなした、 今の世に天明伏見義民と称される人物が 集まり、将軍直訴の決議が行われた場所と しての歴史が残ります。この直訴は時の 賄賂政治の権力者であった田沼意次の排斥に 多大な功績があったとも云われます。 この当たりも面白い話題ですが、江戸の住人 たより、ならともかく、私のページでは省略 しておきましょう。 その直訴に及んだ七人は、直訴という行為の 事の重大さから、封建制度の下では、直ぐ には諸手をあげて喜べる、目に見えた成果 とはならなかったけれど、歴史の一端を 変えた人々であったことは確かです。 そう云った名も無き人々によっても歴史は 積み重ねられてきた日本だと考える時、 思うことも多々あったりです。 この話は、今は伏見義民の碑が残る御香宮を 紹介する時にでも詳しく書けるかと思います。 そして、真宗院には解剖学の礎となった人物 として知られる山脇東洋(1705〜62)が眠り ます。東洋が著した「臓志」は日本最初の 内蔵図。これまた京都が最初の話題のひとつ を発見です。 |