/// 瑞光寺、元政庵(げんせいあん) /// (03/05/26)
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宝塔寺からさらに南へ5分ほど でしょうか。JR奈良線に沿って瑞光寺は あります。瑞光寺は、またの名を元政庵 とも云いますが、むしろ元政庵の方が 風情と合っているお寺です。 その様は本堂が茅葺きであるところに あります。そうそう山門も茅葺きでした。 寺院を思い浮かべる時、瓦葺きと云う 先入観のある私では、やはり瑞光寺より 元政庵の名がしっくりくるところです。 その瑞光寺は、元の極楽寺の薬師堂跡と 伝わります。宝塔寺も極楽寺にまつわる 歴史を持つお寺でしたが、この近くの地名 にも残る極楽寺は、今はそれと判る史跡 などは残りませんが、かなり広大な境内を 持つ寺院だったようです。 |
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平安時代後期からの歴史物語である 「大鏡」によれば、往時の仁明天皇が 秘蔵の琴の爪をなくした折に、藤原基経が 神仏に祈願をなし、この地で爪を探し 出したことで、極楽寺建立へとつながって ゆきます。 その極楽寺も荒廃の時期を経て、明暦元年 (1655)と云うから、江戸時代に入った頃に、 元政上人がこれを再興して、薬師経の経文 より瑞光寺と名付けたと伝わります。 元政庵と云われる由来もこの話にあります。 それにしても、何故に山門も本堂も茅葺き なのか。 |
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その答えは元政上人の人柄にありそうです。 上人が彦根藩主である井伊直孝に仕え 石井吉兵衛と名乗り市井(しせい)の人で あった頃、江戸勤めの時に吉原の三浦屋 高尾大夫と婚約までの恋仲となったけれど、 仙台藩の伊達侯に、気の変わらぬ大夫は 切り捨てられます。 このことで吉兵衛は出家に身を置き、生涯を 清貧に甘んじる生活を送ったと伝わります。 きっと、元政上人はこのような境遇を経て、 考えること、思うこともあって、質素を 旨とし、華美を嫌った人物なのでしょうね。 のちの話ですが、徳川光圀、黄門さんですが、 光圀が元政上人の人柄を知って、墓碑の 建立を申し出たけれど、往時の住職が上人の 遺志を重んじるということで、この申しでも 固辞したと伝わります それが、茅葺き山門、茅葺き本堂に表れて いるような気がします。 でも、現在では茅葺きのほうが、経済的にも 維持するのが大変かな。 |
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そんな元政上人の墓らしく、それは盛土の 上に竹が三本。それが墓の標だそうです。 一本は法華経、一本は親、そして残る一本は 衆生の為と伝わります。 また、この三本の竹には男女の縁切り信仰が あるとか。縁切りを願う者は、駒下駄を履き、 元政上人の墓の周りを竹箒(ほうき)で掃き 清め、お墓の標ともなっている竹から葉を 一枚穫って、それを相手の襟(えり)に縫い 込んでおくと縁が切れると伝わります。 駒下駄からも判るように高尾大夫の出来事 から生まれてきた信仰なのでしょう。 でも、現在では竹箒もなかなか無いし、 洋服の襟に縫い込むなど至難の技か… それから本堂には中正院白護の作と云われる 釈迦如来座像を祀りますが、その座像の 胎内には法華経と共に五臓六腑が納まって いるそうです。京都では清凉寺の釈迦如来 立像にも五臓が納められていることが知られる ところです。毎年3月18日には「元政忌」が 営まれ上人の遺品等が公開されます。 |