/// 秀吉と高台院 /// (06/01/19)

豊臣秀吉の菩提寺でもある高台寺

 法名、高台院湖月心公と称する人物、
さて誰でしょう。答えは”ねね”、
または”北政所”(きたのまんどころ)
と云えば、そう豊臣秀吉の正室です。
彼女の生まれは尾張愛知郡朝日村で
杉原定利の二女。織田信長の足軽頭で
あった浅野長勝の養女となり清洲城の
足軽長屋に移ります。
秀吉とはこの足軽長屋で出会うことになり
ます。

その頃の秀吉はまだ信長の家臣、名も
木下藤吉郎を名乗っていました。
この頃の人物はしばしば名が変わるので
ややこしい、秀吉も俗説では、幼名の
日吉丸に始まり木下藤吉郎、羽柴秀吉、
藤原秀吉、豊臣秀吉と名はありますが、
みな同一人物。
開山堂と名勝庭園辺り
名前に拘った一人が秀吉でした。
ちなみに”羽柴”と云う姓は柴田勝家、
丹羽長秀にあやかり一字ずつを取って
羽柴に、藤原の姓は朝廷最高位である
関白に登り詰める際に、藤原氏以外で
関白に就いた前例がなかったので強引に
藤原を名乗ったとか…、
天正13年(1585年)秀吉が関白の職に
就いて天下を取ると朝廷より”豊臣”姓を
賜り、豊臣秀吉を名乗ります。
秀吉はどうも名に拘る人物のようです。

名前の話が続きますが、”ねね”も
最近では”おね”が正しいと云う説もあり
ます。彼女の自筆手紙に”ね”の自署が
残っているそうです。往時の女性の名が
一文字であることは通例で、それに
接頭辞の「於(お)」が付いたと云うもの
です。それがいつしか誤って伝わり
”ねね”と呼ばれるようになったとか。
吉野窓が特徴の茶席、遺芳庵(いほうあん)
では”政所”はと云えば、時代によって
多少の役割は異なりますが、財政を中心と
する事務を扱う役職でしょうか。何故に
”北”なのかははっきりしませんでした。

天正13年(1585年)秀吉が関白の職に
就いた折に、ねねは従三位に叙せられ、
北政所(きたのまんどころ)と称する
ことになります。

秀吉とねねの結婚は、政略的な面はなく
純粋に恋愛結婚だったようで、慎ましや
かな祝言の記録が残っていたりします。
ねねは正室ですが、子宝に恵まれることは
なかったけれど、影となり日向となり
秀吉を支えたようです。
伏見城より移築された傘亭(重文)
よく、ねねと対比されるのが、側室の
茶々でしょうか。茶々は後の淀君を名乗る
人物、この頃の人物は幼名があったりで、
よく名前が変わります。彼女は秀吉の長男
「鶴松」、次いで「秀頼」を生みます。
鶴松は早くに三歳にして亡くなりますが、
秀頼は徳川氏との政略結婚のお話でも紹介
した千姫と結婚した人物です。

この当時、側室が生んだ子でも、正室が
育て面倒を見るのが普通だったけれど、
茶々はこれを譲らず、背景の秀吉亡き後の
権力争い、派閥争いなども相まって確執が
生まれてゆきます。
こちらも伏見城の遺構、時雨亭(重文)
そのような中、亡き夫の菩提を弔うために
寺の建立を思い立ち、慶長11年(1606)
天皇より賜った院号「高台院」にちなみ
建てられたのが高台寺。関ヶ原の合戦を
経て徳川幕府が開かれるも、豊臣勢は
秀頼がおり、大阪城も保持していること
などの政治的思惑から高台寺建立に際
しては、家康が多大な支援を行ったようです。

しかし、大阪夏の陣で秀頼、淀君が討たれ
豊臣家が滅ぶと、秀吉の菩提所である
豊国神社も取りつぶされ、ねねは悲嘆の
あまり病床に伏せ、寛永元年(1624)、
高台寺で七十七歳の生涯を閉じたと云います。

今は円山公園から清水寺に至る途中、東山の
代表的な観光スポット、「ねねの道」として
整備された小路はよくねねが散歩した道だ
とか、名も無き頃から秀吉の伴侶として
生きたねねをちょっと思い浮かべてみるのも
良いかも知れません。

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