/// 知恩院に眠る千姫 /// (05/09/01)

濡髪堂前、千姫のお墓
 以前に紹介した濡髪堂の真ん前に、
一番大きく目立つのが千姫のお墓です。
徳川秀忠の娘で、幼少七歳で豊臣秀頼に
嫁ぎ、波乱の人生を送った女性です。

慶長2年(1597)徳川秀忠とお江の長女
として誕生します。
僅か2歳で豊臣秀頼と婚約、政略結婚
以外の何ものでもないですが、慶長8年
(1603)に秀頼の元に嫁ぎます。

1603年と云えば関ヶ原に勝利した家康が
徳川幕府を開いた年、この時、豊臣秀吉
は既に亡くなっており、豊臣秀頼は
六十三万石の一大名となってしまって
いて、大勢は決していたとも云えますが、
豊臣秀吉が残した巨万の富、難攻不落の
大阪城、秀吉恩顧の家臣には、家康も
僅かばかりの危惧を抱いていたのに違い
ありません。

慶長19年(1614)、思いもよらぬ事件、
豊臣方にとってはいいがかり、徳川方に
とっては千載一遇の事柄が起こります。
「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌(いん
しょう」、そう方広寺大仏殿鐘銘事件です。
方広寺大仏殿鐘楼
歴史の勉強のようになってしまいますが、
この鐘に刻まれた銘は「家康」の文字を
分断しており、家康の滅亡を祈願したもの
だと、いいがかりを付け、秀頼、淀君母子
の江戸詰を迫ります。

ここに豊臣方はその挑発に乗って?、挙兵、
”大阪冬の陣”、(1614)、”大阪夏の陣”
(1615)へと突き進みます。

千姫にとっては、実家と嫁ぎ先による戦、
それまで城内では淀君らに敵の娘として
見られ、不自由な日々を送ったと伝わり
ますが、秀頼とは仲睦まじい夫婦であった
とも云います。
今は大仏殿はなく鐘楼のみが残ります。
しかし、歴史は時として非情なもので、
難攻不落の大阪城も、冬の陣で埋められた
外堀では防ぐ手だてもなく、火が放たれ、
炎の中で落城、秀頼、淀君母子は自害して
果てることに…

千姫は、と云えば、孫娘の身を案じ、
「これを助けたものには千姫を嫁にやる」
と云う家康の触書の元、大野治長の
計らいによって大阪城を脱出します。
俗説は坂崎出羽守が猛火をかいくぐり
助け出すと云う物語になっていますが、
史実とは異なるようです。

史実と異なると云えば、錦絵や浪曲の
題材ともなっている千姫の”吉田御殿の
御乱行”、夜ごとに道行く人に声を
かけては御殿に誘い込み、享楽の果てに
毒殺したと云う話。

これもどうやら作り話のようで、千姫を
担いで豊臣家再興を図ろうとする元家臣ら
への対策説、また、落城後二ヶ月余りで
再婚した千姫への当てつけ、などの訳
あって生まれてきた話のようです。
判りにくいですが「国家安康 君臣豊楽」の部分
千姫は慎ましやかな女性で、元和2年
(1616)、本多忠政の息子、忠刻と再婚、
姫路城に移り、播磨姫君とも呼ばれ平穏に
暮らしたそうです。

しかし、その平穏な生活も忠刻までが
病死で破綻、千姫は出家して天樹院と号し、
娘の勝姫と共に江戸に戻るも、3代将軍家光
が彼女を暖かく迎えたと云われます。その後、
千姫は江戸の竹田御殿で余生を過ごし、
70歳で波乱の人生を閉じたのでした。

戦乱の世、政略結婚、今の私達には想像の
世界でしかないですが、知恩院に眠る
千姫のお墓は実として歴史を伝えます。

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