/// 南座、吉例顔見世興行 ///  (00/12/14)

 歌舞伎の発祥が1603年と云います。この年号、どこかで聞いたような
年号です。そう徳川家康によって江戸幕府が開かれた年です。
そして歌舞伎発祥から十余年の年を経て南座が誕生しました。

京都所司代より四条河原町に七つの櫓(座)を開くことが認められ、
その一つが今に伝わる南座です。
当初、座は四条通に五座、縄手通に二座があったそうです。
その後、廃業などもあり、六座が徳川吉宗の時代である享保年間まで
維持されていたけれど、火災などで廃業する座も出てきて、明治の
頃には南北の二座のみが残ることになります。
その北側の座も明治26年に廃業し、南座のみが残ることとなります。

唯一四条河原に残る南座は、このような歴史、由緒を伝える座です。
その桃山風破風造りは珍しく、国の重要文化財にも指定されています。
その南座で、師走の風物詩ともなって
いるのが「吉例顔見世興行」です。
これは役者との契約が年俸制だった為だとか、
今年一年の芝居は、これこれの役者で
務めますとのお披露目興行が
「吉例顔見世興行」へと変遷します。

「吉例顔見世興行」では正面玄関に
「まねき」が掲げられます。「まねき」は
隅から隅まで観客で埋まるようにとの
願いから、役者の名前は隙間の少ない
勘亭流と云う独特の書体で書かれます。
この勘亭流と云う書体は岡崎勘亭と云う
人物がしたためたところ好評を博した
ところから付けられた書体名だそうです。

この「まねき」は長さ1.8m、幅32cmの檜板、
つや出しのために清酒を混ぜた墨で
一気に書き上げられます。板は毎年
削り直し使われるけれど、五年が限度とか。

この「まねき」が二枚目の男、三枚目の
男と云う言葉の語源ともなっています。
主役とも云える二枚目に掲げられる役者、
その次の三枚目の役者…、ここから出た
言葉だそうです。
ちなみに一枚目は座主の名が掲げられます。

四条大橋を渡ってすぐ、華やかに彩られた
南座は京都の冬の風物詩です。

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