/// 鵺大明神 /// (04/03/15)
二条城の北西角の直ぐの所に二条児童公園があり、その北端に 鵺(ぬえ)大明神があります。神社と云っても小さな祠と鳥居が あるだけです。 ”鵺”は夜の鳥と書きますが、ツグミの一種、トラツグミのこと だそうです。夜にヒョ〜、ヒョ〜と、悲しげに鳴く鳥だとか… |
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近衛天皇の頃と云うから平安時代後期の お話です。天皇は毎夜ひどくうなされる 日々が続いていたと云います。 ある日、警護の武士が丑の刻になると、 ヒョ〜、ヒョ〜と妙な唸りと共に東三条 の森から黒雲がわき出て、清涼殿の上を 覆い尽くす光景を目にします。 天皇は即座に何者ともつかぬ相手の退治を 命じ、そして白羽の矢が当たったのは弓の 名手として名を馳せていた源頼政。 頼政は神明神社に大願成就の祈願を込め、 五月の月の冴えわたる丑の刻、その日も 突然に東三条の森に黒雲が立ち始め、 みるみる清涼殿を覆ったと云います。 |
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黒雲の中に何かが動く影が見える、頼政は すぐさま弓に矢をつがえ”南無八幡大菩薩” と念じつつ、矢を放ちます。 すると、奇怪な声をあげ庭先に落ちた 奇怪な獣、頭は猿、体は狸、尾は蛇、 手足は虎であったと云います。 その鳴き声が鵺に似ていたことから、 頼政の”鵺退治伝説”は生まれます。 室町時代には、この伝説を元に能「鵺」が 生まれ、江戸時代には浄瑠璃、歌舞伎の 題材ともなってゆきます。 鵺大明神の傍らには鵺を退治した時に、 血の付いた矢尻を洗った池があります。 正確には「あった」かも知れません。 二条児童公園は現在整備が行われており、 伝説を偲べる池が復活再現されるのか どうかは判りません。 |
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元禄時代には京都所司代下屋敷があった 場所で、明治維新で屋敷は取り壊され、 すぐに監獄が建設され池の存在も消えて いたけれど、監獄が山科に移転した折に、 池の形跡が出土し、伝説も復活したの でした。 では、洗ったあと、矢尻は何処へ行った のかと思えば、頼政が鵺退治成就の お礼に奉納したとかで、四条烏丸の南東、 東洞院の綾小路東入ルの神明神社に残ると 云います。この地は近衛天皇がしばしば 皇居とした藤原忠通の屋敷跡、四条内裏 とも云われた場所でした。忠通の屋敷内に あった鎮守社が神明神社の興りだと 伝わります。 この辺りの町名は神明町、神明神社は 天台宗護国山立願寺円光院の元にあった けれど、明治の神仏分離で神社だけ残され、 今は神明町の人々によって守られています。 秋の大祭の折にはいわくの「矢尻」も 公開されているとか… |
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頼政は俗に「源三位頼政」(げんさんみ よりまさ)とも呼ばれます。源の姓を名乗る けれど、保元・平治の乱では平清盛側に 参戦し、それは、その後の源氏衰退の主因 ともなったと云います。 ”平氏にあらざれば人にあらず”と云われた この時代に従三位の位にまで登り詰めたこと から「源三位頼政」と云われます。 紆余曲折の歴史の流れの中で、後白河天皇の 皇子、以仁王に勧め、平氏追討の令旨を 発するものの、宇治川合戦で平知盛の軍に 破れ、平等院「扇の芝」で自刃して果てます。 今はその平等院内の最勝院に眠る源三位頼政 です。 ツグミは広葉樹に住み着くと云います。 東三条の森は無くなり、杉の人工林が増えた 京都市周辺では見つけるのも難しいの でしょうか。ひょっとすれば御苑ならば 住んでいるかも…、ヒョ〜、ヒョ〜と云う 鳴き声も一度聞いてみたいものです。 |