/// 大石良雄ゆかりの山科 /// (01/12/17)
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岩屋寺、近畿三十六不動尊のひとつ 元禄十四年三月十四日、四つ半、 江戸城本丸松の廊下。播州赤穂藩主、 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)は「このあいだの遺恨 おぼえたるか」と言いざまに吉良上野介 義央(きらこうずのすけよしなか)を 斬りつけた…。後に忠臣蔵と云われる 物語の発端です。 喧嘩両成敗と云う慣習もある中で、 内匠頭は即日切腹、上野介にはお構いなし と云う即断が下され、赤穂藩五万三千石は 改易、家臣は路頭に迷うことになります。![]()
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大石良雄遺髪塚の碑と岩屋寺参道入り口 そして元禄十五年十二月十五日、寅の 上刻、七つ時、今で云えば午前四時で しょうか。旧播州赤穂藩浪士の四十七士は 内匠頭の無念を晴らさんとして、吉良邸に 討ち入ります。 この忠臣蔵は以後、歌舞伎に取り上げられ たり、昭和に入ってからでも数多くの映画の 題材となってきたようです。そして年末に なると必ずと云っていいほど、テレビ、 映画、舞台の再放送があったりします。 この忠臣蔵、何が日本人の心を捉えるのか… この忠臣蔵の主人公とでも云える大石良雄の ゆかりの地が京都の山科に残り、岩屋寺、 大石神社、福王寺、花山神社がその歴史を 伝えます。![]()
大石神社、大石良雄の巨大な絵馬も… 岩屋寺は通称大石寺とも云われます。創建 時期などは不明な点が多いようですが、 赤穂城明け渡しの後は大石良雄がこの地に 隠棲し策を練っていたと云われ、討ち入りに 際しては邸宅、田畑一切を岩屋寺に寄進した と云われます。その後荒廃してしまいますが、 京都町奉行、浅野長祚の寄進などによって 再興されます。 本堂に安置する本尊不動明王は智証大師の 作と伝えられ、大石の念持仏であった そうです。 境内の木像堂には浅野内匠頭長矩公の位牌、 大石良雄の遺品、四十七士の位牌木像が安置 されています。![]()
花山稲荷神社 また、本堂下には大石良雄の遺髪塚、 邸宅跡が残ります。 この岩屋寺から北へ少しの所には大石神社 があります。大石神社の創建は新しく昭和 10年のことになり、赤穂義士に関わる浪曲で 財を築いた初代奈良丸と云う浪曲師が多額の 寄付をして創建されたとも伝わります。 祭神はやはり大石良雄。境内には浅野家 出入りの商人であった天野屋利兵衛を祀る 義人社が共に建っていたりします。春には 本殿前の枝垂れ桜が大石良雄を偲ぶかの ように見事に咲き誇ります。![]()
花山稲荷神社の大石断食石 大石神社を後にして北へ少し行くと山手に 延びる坂道があります。突き当たりには 福王寺、ここも本尊は大石の念持仏地蔵を 本尊として祀っています。別名大石地蔵とも 云われます。 さらに大石神社から京への滑石道を越えて 北東へ徒歩10分程でしょうか、住宅街に溶け 込んで判りにくいですが、花山(かざん) 稲荷神社があり、ここも大石が深く崇敬した 社と云われ、境内には大石が食をも断ち策を 練ることに没頭したとも云われる大石断食石 なる石が伝わっています。 また、忠臣蔵とは話が異なりますが、以前に 紹介した三条小鍛治宗近が花山神社に祈願の 折り、ふいごを授かり刀を鍛えたと伝わり ます。その鍛えた場所と云われる所が今も 境内に稲荷塚古墳として残ります。