/// 鹿王院  ///  (02/09/28)

 前回に紹介した車折神社から京福電車
でひとつ嵐山寄りの駅が鹿王院(ろく
おういん)、駅から住宅街を回り込んだ
所に駅名ともなっている鹿王院はあり
ます。

鹿王院は足利三代将軍、義満が延命祈願
をもって建てた禅寺で、京都十刹第五と
云う名刹です。
枯山水の広々とした庭、伽藍の向こうに
浮かぶ嵐山の姿が目に止まります。
この庭は日本最初の平庭式の枯山水庭園
と云われます。
鹿王院は臨済宗の単立寺院なので、
やはりその庭は禅宗独特の雰囲気があり
ます。目立つものがある訳ではなく、
石と苔と奥行きのある庭が広がるだけ
です。明らかにそれまでの平安仏教に
基づく浄土庭園とは趣が異なるようです。
足利義満の筆になる扁額「覚雄山」
単立寺院と云うのは、その教え法統は
守るけれど、特定の宗教法人には
属さない寺院のことです。
庭園と云えば、つい先頃、十五個の
石組みで構成され「虎の子渡しの庭」
とも云われる龍安寺の石庭が快いと
感じる訳は、その石組みの配置、
それぞれの石組みの間隔が対称線を
描いており、見た目が石庭の中に木の
枝状に広がっているように見える
ことが、人が物を認知する時、脳は
それを円滑に処理しやすい為であると
云う研究結果が発表されていました。
脳の生理学、心理学はともかく、先人は
五感でもってその当たりを会得して
いたのでしょうね。
山門から中門への参道
龍安寺も鹿王院も禅宗の庭、禅僧が縁に
端座して石と対決する修業の空間で
あったりします。

鹿王院の開山は足利義満の師でもあった
春屋妙葩(しゅんおくみょうは)。
その時に開山したのは宝憧寺と云う寺院、
鹿王院はその塔頭だったようです。
あまり教科書の歴史では習わない名前の
ようですが、当時は中国にまでその名を
とどろかせた禅僧で、夢想疎石の高弟で
天竜寺、南禅寺、東福寺、相国寺の
住持を歴任し、禅宗寺院を統括する
初代の僧録に任命されました。
今の時代の民主主義国家では政教分離が
当然のことですが、当時は政治も行政も
宗教も一体として相互に関わりながら
社会が動いていた時代、鎌倉末期の
幕府の権力が衰退してゆく中で、新興
禅宗が武士階級に浸透してゆく頃に
春屋妙葩は宗教のみならず、政治面でも
大きな力を発揮していたようです。
紅葉の隠れたスポットかも…
また、印刷技術などを学び「雲門一曲」
(詩集)、「智覚普明国師語録」などの
著作の他、いわゆる五山版とよばれる
典籍に関わるなど、五山文学の発展にも
寄与した人物のようです。

山門には足利義満の筆になると云う
「覚雄山」の扁額が掲げられています。
山門から中門までは天台烏薬(てん
だいうやく)の銘木が茂り、苔も
綺麗な参道です。今に残るのは
舎利殿と客殿、本堂。
嵐山にはさほど遠くはないけれど、
観光シーズンでも人もまばらな鹿王院
です。季節外れだと誰一人もいない
ことも珍しくはありません。それから
鹿王院では女性の禅道場が開かれ、
確か女性のみ宿泊も出来たと思います。
ただし、朝の座禅は必修ですよ〜〜。

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