/// 新京極の誓願寺 /// (07/06/03)
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誓願寺は以前に紹介した和泉式部寺こと 誠心院を南に少し下がった所にあります。 天智天皇の勅願所として創建されたと 伝わる奈良時代からの寺院です。 天智天皇が神仏のお告げにより、仏師の 賢問子、芥子国父子に阿弥陀如来坐像の 建立を命じたと云います。賢問子が 地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩の化身となり、 闇の中で光ながら阿弥陀様を彫っていた とか。 別々に彫った阿弥陀像ではあったけれど、 合わせると寸分違わずの阿弥陀如来座像が 彫りあがり、誓願寺が建立されたと伝わり ます。 |
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今も新京極通から本堂が望め、阿弥陀如来 座像が祀られていますが、幾度かの火災に より焼失したようで、今の阿弥陀様は建立 当時の阿弥陀様とは異なるようです。 平安遷都に当たって上京区は西陣の 元誓願寺通小川の地に移ります。 元誓願寺通の名が示すように、この通りが 誓願寺の名残です。 そして、以前にも少し紹介しましたが、 秀吉の都市整備によって今の新京極に 移りますが、秀吉の側室だった松丸殿の 発願もあり、塔頭子院など十八宇を有 する大寺院となったのでした。 往時は秀吉が方広寺に大仏を建立するまで は京都一の大仏として親しまれていた ようです。 |
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江戸時代の初めに誓願寺の五十五世住職と なった人物に”安楽庵策伝上人”と云う 僧侶がおりました。この策伝は茶道の方 では「安楽庵流」と云う一派を開いた ほどの人物ですが、他に話術に長けた 僧侶だったようです。 それら話題を江戸時代に流行した笑話本に 習って顕したのが”醒睡笑”(せいすいしょう) と云われる八巻の書物です。その笑いとオチが 散りばめられた策伝の話術から彼は落語の祖と 云われます。 当時から落語に扇子はつきものだったので しょうか。 境内には策伝ゆかりの扇塚があります。 |
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また、世阿弥の作と伝えられている謡曲 「誓願寺」では、和泉式部が歌舞の菩薩と なって語られることから舞踊家の信仰も篤く、 芸の上達を祈願して扇子を奉納する習わし も残ります。 他に誓願寺にゆかりの人物に山脇東洋も おります。東洋は江戸時代中期の医者で 六角獄舎の刑場において人体解剖を許され、 我が国初めての解剖記録である「臓志」を 顕した人物。杉田玄白の「解体新書」が 顕される以前の話です。 その山脇東洋は後に五臓六腑のある 阿弥陀像を誓願寺に寄進したそうですが、 焼失しており現存していません。 |
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もう一人と云うのか、一組のゆかりの 人物。その名は”お半と長右衛門”、 この二人は親子ほどの年の差であるけれど、 許されぬ恋仲となり、桂川で心中したと、 歌舞伎の「桂川連理柵」(かつらがわ れんりのしがらみ)で演じられる物語の 登場人物です。ところが史実は商用で 出かける長右衛門が帯屋に頼まれて、 お半を同伴して桂川を下っている折に、 船頭に金子を強奪され、溺死させられたと 云うことのようです。 歌舞伎の世界ではよくある話か、 スクープ的に脚色した筋立てのようです。 このことが何故に誓願寺と関わりがあるか と云えば、帯屋の宿坊が誓願寺塔頭に あって二人の亡骸が誓願寺の墓地に葬られ たことです。 |
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誓願寺の墓地は普段は見ることが出来 ませんが、ムービックス京都の裏手、東側に あり、山脇東洋、お半・長右衛門、 江戸末期の国学者であり、香川景樹に歌学を 学んだと云う穂井田忠友らもそこに眠ります。 最後に誓願寺の門前に立つ時、向かって 左脇に2mは越える石柱が建っています。 俗に”迷子のみちしるべ”と云われる標柱で、 正面には「迷子みちしるべ」、右側に 「教しゆる方」、左側に「さがす方」と 彫ってあります。 江戸末期から明治にかけて迷子が社会問題と なったとかで、いわば人捜し、時には落とし 物の伝言板、掲示板と云った用途に用いられた ものです。かつて仲人のことを月下氷人とも 云っていたそうですが、このことからこの 石柱は「奇縁氷人石」とも云われたりも しました。 新京極はろっくんプラザなる広場の前に 誓願寺はあります。境内も本堂も自由に お参り出来ますので、思い出しながら 寄り道してみて下さい。 |