/// 新京極の誠心院 /// (07/03/11)

和泉式部供養塔(法篋印塔)
 誠心院は華岳山誠心院と号する真言宗
泉涌寺派の寺院です。
今は”せいしんいん”と呼ばれますが、
かつては”じょうしんいん”と呼ばれて
いました。昭和37年の資料では”じょう
しんいん”と記されているので、今の呼び
名になったのはここ最近のようです。

今は修学旅行生や観光客が行き交い賑わう
新京極の一角に誠心院はあります。
新京極と言う時は場所を指しますが、通り
の名は新京極通。北は三条通から南は
四条通に至る約500mほどの通りです。

その開通は明治5年、大政奉還、明治維新
と大きな歴史の胎動を誰もが感じ取る中
での出来事です。
往時は廃仏毀釈直後であったり、境内地の
収公が行われるなど、この辺りは寂れる
一方だったと云います。

この状況の打開策として当時の京都府参事
であった槇村正直が新京極通の開通と
商人達に土地の払い下げを行ったのでした。
和泉式部千願観音
その売却価格は一坪五十銭、それでも
なかなか買い手が付かなかったと云うから、
いかに魅力を感じない土地柄だったかが
判ります。

ところが明治十年には京都一の繁華街と
称されるまでに活気づき今にその賑わい
は続いています。

そんな中に誠心院はあって、誠心院も
かつては新京極通を越えて寺町通にまで
境内が広がっていたけれど、新たな通り
の設置に伴い今はその新京極通に面する
までになっています。
阿弥陀如来と二十五菩薩像(江戸時代)
誠心院は藤原道長が和泉式部の為に
東北院内の一庵を与えたのがその起こり
と伝わり、その和泉式部が初代住職だった
ようで、法名の誠心院智貞専意法尼に
因んで誠心院との名が付きます。

軒端の梅の話題でも書きましたが、東北院
は廃絶の後に神楽岡麓に再建されますが、
誠心院は一条小川にあった誓願寺の傍らに
再建され、そして豊臣秀吉の都市政策に
よって現在の地、寺町に移ります。
新京極通に面する誠心院山門
その経緯から和泉式部寺との俗称も
あり、今も和泉式部供養塔が残ります。
寺の移転に際して一条小川から移された
供養塔、形式的には法篋印塔(ほうきょう
いんとう)ですが、一説には式部のお墓
だったと云う説もあります。
塔自体は正和二年(1313年)に改修建立
されたと云う銘が刻まれているので、
鎌倉時代のもののようです。

高さは約4m、幅約2.4mあり、法篋印塔は
塔身の四面に梵字を彫るのが普通ですが、
この塔は塔身正面にのみ阿弥陀三尊の
梵字が標されている珍しい法篋印塔です。

江戸時代の名所図会には石塔の傍らに
軒端の梅が描かれているそうですが、
今は梅の木は見当たりません。

法篋印塔の背後は墓地になっていますが、
傍らには天正年間に建立されたと云う
「阿弥陀如来と二十五菩薩石像」があります。
山門脇の鈴成りの輪
これは和泉式部の娘の小式部内侍が亡く
なった折に誓願寺の本堂に籠りご本尊の
教えを受け、女人の身でも六字の名号を
お唱えすれば、身の穢れも消えて往生
できると云うことから、六字名号を日々
唱えて、その後、阿弥陀如来と二十五菩薩
に迎えられ浄土へ往生したと云う逸話に
基づくものです。
この当たりは謡曲「誓願寺」にも登場する
話であったりもします。

新京極通六角、水辺もある六角公園の
少し南に誠心院はあります。通りに
面して間口の狭い山門と和泉式部の
古い灯篭の竿と台座を使ったと云う
”鈴成り輪”(すずなりぐるま)があり、
一回回せば経典を一回唱えたことになる
と云うものですが、貼り紙には”お願い
をしながら車を回して下さい”とあり
ました。回せば願いが叶うかも…、
新京極を訪ねたならちょっと寄り道して
みて下さい。

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