/// 知恩院の忘れ傘  /// (05/06/21)

巨大な知恩院の御影堂(みえいどう)
 知恩院は山号を”華頂山”と称する
浄土宗の総本山。承安五年(1175)に
法然上人が大谷禅房を結んだ地、
そして、法然上人入寂の地でもあります。

法然上人はそれ以前の浄土教を基とし、
専ら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える
ことによって、来世の極楽浄土が成ると
云う教えを説きます。

しかし、無量寿経、観無量寿経、
阿弥陀経のいわゆる浄土三部教以外の
教えは雑教、雑修との理念が比叡山の
反感を買い、安楽、住蓮の事件に連坐
して四国に流されることになります。
奥まった山麓にある勢至堂
建暦元年(1211)には赦免され京に戻り
ますが、翌年八十歳で亡くなります。
その法然亡き後、遺弟源智上人によって
勢至堂が建立され、知恩院と称したのが
その興りです。

伽藍の多くは応仁、文明の乱で焼失して
おり、今に残るのは江戸時代の建築です
が、勢至堂のみが室町時代の再建で、
知恩院最古の建物です。

山麓に位置する知恩院は城塞のようでも
あり、黒門から入ると、その石垣は城
そっくり、実際、徳川幕府の庇護の元に
あった往時は幕兵が駐屯し、二条城に
事ある時に備えたとも伝わります。
城の縄張りを思わせる参道
本堂は”御影堂”(みえどう)と云われ、
徳川家光公により建てられ、四千人は
入れるほどの大建築です。話はそれて、
浄土宗では御影堂と書いて”みえいどう”
と読みますが、東本願寺など真宗系の
寺院では同じ漢字でも”ごえいどう”と
読みます。

その御影堂に、靴を脱ぎ階段を上がり
廊下を右にすぐの所に案内板があるので、
場所は分かりますが、雨の日、夕暮れなど
薄暗い時は、視線も高くなる軒先裏の、
その”忘れ傘”はちょっと見つけにくい。

鳩除けなのでしょう、金網が邪魔して一層
判りづらいですが、左甚五郎が魔除けに
置いたとも伝わる傘で、知恩院を火災から
守るとか…

云われて見ると、和傘のようなものが
置かれています。そして、この”忘れ傘”
には別の逸話も伝わります。
金網の向こうに”忘れ傘”
寛永十年、ある雨の日、知恩院三十二世の
雄誉上人が焼失して再建した本堂を見上げて
おると、ずぶ濡れの童子が座っているのを
目にします。傘も無く雨宿りかと思い、
傘を貸してやると、童子は「永くこの地に
住んでおりましたが、御堂が出来たので、
住むところも無くなり困っております」と、
そう告げると裏山の方へ歩いていったかと
思うと、突然姿を消したそうです。
上人が次に目にしたのは、白いキツネが
裏山を駆け上る姿だったそうです。

童子はキツネの化身だったのか…、御堂の
建設で住みかを無くしたキツネを不憫と
思った上人は、早速、住み家となる一堂を
建ててやったそうです。
勢至堂の奥に”濡髪祠”はあります。
すると、またあの童子がやって来て、
「傘を返しに参りました、住み家まで作って
頂き、ありがとうございます。そのお礼に
これからこの先、お寺を火の災いからお守り
しましょう」と告げるやいなや、キツネへと
戻って帰って行ったそうです。

ところが返して貰った筈の傘は見つからずに
いたところ、御影堂の軒先に火の災いを守る
ように、残されていたというお話です。

濡れ髪の童子、いや、キツネの住み家と
なった一堂は、いつしか”濡髪堂”と呼ばれ
るようになり、”濡れ髪”が”濡れ紙”に
通じることから、花街では縁起が良いとされ、
芸舞妓さんの信仰、そして縁結び祈願女性の
信仰も篤いとか…

”濡れ紙”が花街で縁起が良いとされる訳は
ご想像に任せるとして、この”忘れ傘”には
筋書きの異なる話も残ります。
住み家を奪われたキツネが仕返しを考えて
いたけれど、御影堂に通い説教を聞く内に
改心していくというお話です。
お寺としてはこちらの方が都合が良いか…

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