/// 方相氏、追儺式と節分 /// (01/01/19)
追儺式(ついなしき)は今では節分行事と しておこなわれることが多いですが、 元を正せば大晦日の夜に悪鬼を祓い疫病を 封じる宮中の行事でした。 中国の古い文献には方相氏(ほうそうし)と 称する呪師が熊の皮をかぶり、四つ目の 黄金の目の面をつけ、黒衣に朱の裳を つけ、手に矛と盾をもって疫鬼を 追い出したと記してあるそうです。 日本へは文武天皇と云うから、奈良時代 より以前には伝わっていたことになります。 節分は季節の変わり目、立春を新年と する風習もあった訳で、旧暦の感覚では 大晦日の追儺式と立春を意味する節分は 対をなす行事だったのでしょうね。 やがて大晦日の追儺式と云う概念は取り 払われ節分の行事として定着していった のかなと思います。 以前、大晦日に追儺式がある社寺があって、 何故年末の忙しい今頃?っと驚いたことが あります。でもこの由来を知って納得です。 今では節分行事と豆まきは切っても 切れない縁ですが、これは追儺式とは 別の行事のようで、室町時代あたりより 庶民の間に広まったそうです。 鬼が嫌うのは桃だとかで、追儺式では 桃の弓で葦の矢を放ち、桃の枝で地を打ち 鳴らし鬼を追い払うことになっています。 このあたりは「桃太郎の鬼退治」伝説とも 符合する事実でしょうか。 豆まきは、豆が「魔が滅す」に通じるから という説、邪悪災厄を祓うためという説、 迎春の儀式という説、先の追儺式の名残と いう説などなど諸説あるようです。 年の数より一つ多く食べるというのは、 やはり年越しの意味があるのでしょうね。
写真は平安神宮の追儺式の様子です。 四つ目の面をかぶり、矛と盾を持った 方相氏に従い童子が四門をめぐって鬼を 祓います。 次に四方に向かって矢が放たれ、鬼は 退散すると云う具合です。 その後、一番上の写真、火が入れられ、 大火焚神事が執り行われます。 鬼が登場しての節分行事が多い中で 例年、追儺式が執り行われるのは、 吉田神社、鞍馬寺、下鴨神社、城南宮、 北野天満宮、聖護院などです。 ただ、儀式の中では弓矢を放つだけと 云うところもあります。