/// 小野篁と紫式部 /// (07/01/19)

手前が紫式部、右側が小野篁のお墓
 小野篁(おののたかむら)は平安
時代初期の歌人であり、また役人、
学者とも云える人物。書家の小野道風
の祖父に当たり、また小野小町との
関係でも祖父になるとも云われます。

篁の話は”六道珍皇寺界隈”でも少し
触れていますが、俗称を野相公、野宰相、
野狂と呼ばれ、数奇な伝説が幾つも残り
ます。
日中は内裏に務めるいわば公務員、夜に
なると冥界に行って閻魔大王に仕えたと
云います。篁は亡者が閻魔大王の前に
引き出され罪科を言い渡される折に、
その亡者の生前の行いから閻魔大王に
助言をしたと伝わり、中には娑婆
(しゃば)に戻され生き返ったと云う
話が今昔物語には伝わります。
二人の墓所の入り口
一方の紫式部は云わずとも知れた
”源氏物語”の作者。紫式部とは云う
ものの、この名は正しいものではなく、
いわば呼び名。実名は藤原香子だと云う
説があったりしますが、よく判らない
のが正しい表現でしょうか。
この頃の女性は誰々の娘とかの記述しか
残っていなかったりします。

藤原為時の娘と云うことは確からしく、
当時、宮廷の後宮に仕えた女官は、その
血筋の役目から女房名が決まりました。
為時は式部省の役人だったので、藤式部と
呼ばれていたけれど、紫の上を主人公と
する”源氏物語”の作者であったこと
から、いつしか紫式部と呼ばれるように
なったと云います。
小野篁と紫式部
紫式部の父、為時は役人として名を
馳せたと云うよりは文人、詩人としての
名の方が通りが良かったようで、
そんな環境の中で式部の文才も磨かれた
ようです。そんな式部の結婚は遅く三十
近くになってからだと伝わります。

今の時代では珍しくもない年齢かも知れ
ませんが、当時は十五歳まで、早ければ
十二、三歳で結婚をする時代、かなりの
晩婚だったようです。

それも父親と年齢が変わらずほどの藤原
宣孝と云う人物と結婚しています。
この当たりはかなり異例なこと。
この辺の境遇と云うのか、生き方が
源氏物語に反映しているのではないかと
思ってしまいます。

宣孝と過ごす期間は短く、三年ほどで
宣孝は流行病で亡くなります。
その後、身の上のはけ口を求めるかの
ように源氏物語は書かれることになり
ます。
千本閻魔堂の紫式部供養塔
当時の結婚の形は”通い婚”と云うもの。
世間に広まる何処そこの才女は美形、
品が良いなどの噂や評判を信じ、詩歌を
送り女性が返歌を送るところからお付き
合いが始まります。
そして段取りが進めば夜に男が女性の
家へ通い、女性がそれを認めて三日三晩
続くことで結婚が成立します。
最終的な決定権は女性側にあるけれど、
男性の結婚の相手は一人とは定まって
いなかった、いわば一夫多妻だったと
云うし、生まれた子供は女性側、母方で
育てられます。
現代の感覚からすれば、おかしな社会
ですが、それが平安貴族の普通の形態。

この当たりを理解して源氏物語を読ま
ないと情景が判らなくなります。
源氏物語はフィクションだと云われ
ますが、登場人物は架空であっても、
その文面には当時の男女間の恋愛のあり
かた、宮廷、貴族社会の内面が色濃く
表現されています。
紫式部の生家跡とも云われる盧山寺
さて、小野篁と紫式部の関係ですが、
意味合い的な関わりと云うよりは物理的な
関わりとでも云うのでしょうか、何故か
小野篁の墓の隣に紫式部の墓があるのです。
仲良く並んで建っています。
冥界の番人である小野篁、方や平安王朝
文学、物語文学の傑作と云われる源氏物語
の作者。摩訶不思議な光景です。

そのよりどころは室町時代に四辻善成が
顕したと云われる「河海抄」(かかい
しょう)と云う文献によります。
それには”式部の墓は雲林院白毫院の南、
小野篁墓の西にあり”との記述があり、
これが根拠になっています。確かに式部は
源氏物語で雲林院は主人公の光源氏が参籠
した所として登場させてはいるけれど、
墓の真偽には疑問もあるようです。
盧山寺の紫式部碑
源氏物語には光源氏の寵愛を受ける
夕顔が物の怪に取り殺されたり、
光源氏の愛人である六条御息所が正妻の
葵上を取り殺すなど小野篁の領域である
怨霊にまつわるであろう話もあるにはあり、
関わりらしきものも見え隠れしますが、

一説に、小野篁と紫式部の墓が建ち並ぶ
のは紫式部が狂言綺語(きょうげんきご)、
ふしだらな物語を描いた大罪人で、
閻魔大王の前に引き出された紫式部を篁が
取りなしたとの伝説によるものと云うのが
あります。
盧山寺のキキョウの庭

多分、これは武士が台頭してくる平安末期
から鎌倉時代にかけてのものでしょう。
時代が変われば、価値観、規範意識も
変わります。
平安時代の普通も武士の時代ではそぐわなく
なったのでしょう。

余談ですが、雲林院は応仁の乱で荒廃し、
天正年間に千本閻魔堂に移され、今の
千本閻魔堂に残る十重石塔は紫式部の
供養塔と伝わります。篁と式部、この
二人の墓所は堀川北大路交差点から
南へ少し下がって島津製作所の傍らにあり
ます。

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