/// 大内裏を出居れば神泉苑  ///  (01/04/17)

 神泉苑は地元ではその読みが訛って「ひぜんさん」と呼ばれます。
桓武天皇による平安建都に伴って、大内裏の南に接して造られた
庭園でした。今は大内裏跡に接しては二条城がありますが、
二条城は慶長8年(1603)に徳川家康が上洛の際の宿所として建築
したものです。神泉苑はその二条城に敷地の大半を譲ったり、
いや譲ると云うより取られたり、民家が押し寄せてきたりで今は
東西約70m、南北約100mの小さな規模となってしまっています。

平安時代の神泉苑は歴代の天皇の船遊びの場であったり、狩り場、
野遊び、納涼、七夕、はては相撲の場であったと記録に残ります。
平安京造営当時の風景を眺めてみると、京都盆地は北東に高く
南西に低くなっています。その南部には広大な湿地が広がって
いました。巨椋池を始め巨大な池や沼が点在していたと云います。
今は高野川、賀茂川が出町柳辺りで
合流して鴨川となって、真っ直ぐ南下して
いますが、平安京以前は高野川はそのまま
南西方向へ、賀茂川は今の堀川通辺りを
南下していたらしいです。これら河川が
集まる所が神泉苑辺りになります。

平安京造営に伴って二つの大きな河川は
東の今の流路辺りに付け替えられますが、
しかし自然の猛威には勝てなかった。
ひとたび大雨が降ると洪水を引き起こし、
西京辺りは一面の水溜まりになったと
云います。防鴨川使(ぼうがし)と云う
役所までを設けて対応するのですが、
それでも幾たびと洪水の難に見舞われます。
このような理由から平安時代には、しば
しば悪疫が流行り、この背景で生まれて
くるのが悪霊伝説であり、そして悪疫退散
を願い始まるのが御霊会信仰でもあります。
その御霊会信仰は時代と共に変化し今の
祇園祭へとつながっていきます。
平安京が平穏無事な穏やかな都であった
なら、今の篤い信仰心、はては祇園祭をも
生まなかったと思うのは考えすぎ
でしょうか。

水に悩まされた神泉苑ですが、反して
普段は水鳥が遊び、豊かな森、自然の
息吹を感じることが出来る楽園で
あったに違いないと思えます。
一方、干ばつの折りには、しばしば
この神泉苑で雨乞いの祈祷が行われて
います。なかでも有名なのが空海と守敏
(しゅびん)の「降雨祈願法力争い」
です。

先陣を切ったのは守敏、祈願法力で僅かの
雨を降らせますが、都を潤すことは出来ず、
代わって空海が降雨祈願を行いますが、
雨を降らす竜神が守敏の呪術によって
動きを止められていることを知ります。
しかし空海は善女竜王が天竺にいることを
突き止めて、善女竜王を都に導くことに
成功し、そして都には雨が降りそそいだと
伝わります。今は朱塗りの法成橋を渡った
小島に善女竜王を祀るお堂があります。
また神泉苑には謡曲「鷺」、と「五位鷺」の
話が伝わります。源平盛衰記には醍醐天皇の
宣旨に”神泉苑の鷺さえも羽をたたんでかし
こまった”と云う話があり、これを元に
謡曲「鷺」が生まれ、この時に天皇から
五位の位を賜ったと伝えられ、俗に云う
「五位鷺」(ゴイサギ)の言葉が生まれます。

そして御池通の「御池」がこの神泉苑から
来ていると云う説もあれば、二条家の庭池を
「御池」と呼んだことからとする説など
あるようですが、これはまた別の機会に…
なお、多くの地図が神社マークを載せて
いますが、神泉苑は真言宗、東寺のお寺です。
これも空海との縁でしょうか。

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