/// 水火天満宮の登天石 /// (10/01/22)
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堀川紫明の交差点から堀川通を南に 少し行くと左側に水火天満宮と呼ばれる 小さな神社があります。 地元では「水火(すいか)の天神さん」 と呼んで親しまれ、観光客が訪れる ことも希な地元の神社です。 この地は天台宗の僧、法正坊尊意僧正の 屋敷跡とも云われます。 その神社には登天石(とうてんせき)と 云われるミカン箱よりちょっと大きいか と云うぐらいの石が鎮座し祀られていま す。 この石は道真が立った石と伝わります。 この道真とはそう菅原道真です。 天満宮だし菅原道真とくれば学問の神様 と相場は決まっていますが、かつて紹介 したかと思いますが、京都ではもう一つ 菅原道真には怨霊と云うイメージもつき まといます。 |
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閃光が走り轟音がとどろく生きた心地も しない天変、人々は道真の祟りだと 恐れたのでした。その背景にはいつの 世も変わらぬ権力争い、覇権争いが見え 隠れします。 日本史のおさらいですが、藤原氏の 台頭を恐れた宇多天皇は右大臣に道真を 重用、この時の左大臣は藤原時平でした。 宇多天皇が譲位して醍醐天皇の世になった 折、時平は何かと物言う道真を嫌悪して いたのでしょう。政治のプロとして隆盛を 極めつつある藤原氏と学問の粋で功績は あったものの政治には疎い道真、両者の 覇権争いの中で起こったのが時平の讒言に よる道真の太宰府への左遷でした。類は 道真の四人の子供も及び、それぞれ土佐、 駿河、飛騨、播磨へと流されてしまいます。 そして道真は流されて二年後の延喜三年 (903年)に五十九歳の生涯を閉じます。 その道真の不遇に世人の同情は集まり、 天変地異が相次ぐと人々は道真の怨霊が 成せる業だと妄想したのでした。 |
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その脅威に不安を抱いた醍醐天皇は 法正坊尊意僧正をして祈祷を命じたの でした。雷鳴とどろく大雨の中、都へと 急ぐ法正坊尊意僧正が賀茂川に差しか かった折、みるみる水位は上がり土手を 越えて町中に流れ込む事態、 法正坊尊意僧正は平静を装い数珠を取り だし祈りを捧げたのでした。さすれば にわかに水位は下がり、水の流れが 二つに分かれた先には石の上に立つ 愛弟子であった道真の姿があったと云い ます。 やがて道真は尾を引いて雲の中に消え、 雷鳴も大雨も瞬時に止んだと云います。 法正坊尊意僧正はその石を持ち帰り 霊を弔ったと伝わります。今に伝わる 登天石はそのような伝説が残る石です。 天満宮と云えば梅ですが、水火天満宮 では梅の印象はなく、春になれば、 数本のなかなか綺麗な枝垂れ桜が目に 止まります。 |