/// 深草山宝塔寺 /// (03/05/12)
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山号を深草山と称する宝塔寺は平安時代に 藤原基経が創建した極楽寺にまで歴史は遡り ます。源氏物語にも登場する真言律宗の 寺院であったけれど、ある日突如として、 法華宗(日蓮宗)に改宗したと云います。 同じ仏教ではあるけれど、信者にはびっくり 仰天の出来事だったことでしょう。 「勝てば官軍」の言葉もありますが、この 維新の頃の歴史にも、一夜にして敵味方が 入れ替わると云う事実もあるので、人が なしてきた歴史は興味深いです。 そう云えば、幕末維新の歴史も、この辺り、 鳥羽、伏見が大きな舞台でした。この話も 近々に書きたいと思います。 話は戻って、法華宗(日蓮宗)の開祖は 日蓮上人と習ったように思いますが、 その弟子であった日像上人が洛中追放の法難を 受けたおりに、当時の極楽寺の住職であった 良桂律師は三日三晩の法論の末に、良桂は 日像に感服し宗派を改めたと伝わります。 |
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宝塔寺と云う寺名は、境内に日蓮、日朗、 日像の三代の遺骨を納める塔があることに よって宝塔寺と云われたり、日像上人が記した と云う、「南無妙法蓮華経」の石塔婆を祀る 寺と云うところからともされています。 京都の法華宗の寺は四条櫛笥(くしげ)町の 柳酒屋を寺としたのが最初と云われます。 しかし、法華宗はその教義の故か、戦う立場を 鮮明にした為に、特に天台宗延暦寺と対立する ことになります。 歴史の時間に「天文法華の乱」って聞かれた こともあるかと思いますが、まさしく法華宗は 武装化への道を進みます。 現在でも宝塔寺近くの極楽寺町では、地域防衛 のために道は狭く、見通しが利かぬように道を 屈曲させたり、環濠の遺跡が存在していた ことも確認されていたりと、その武装化の 名残が見受けられます。 |
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天文元年(1532)、法華宗は山科本願寺を焼き 討ちしたことを発端に、天文五年(1536)、 ついに守護六角氏などの対抗する軍勢が京都の 法華寺院、二十一本山を焼き討ちします。 松ヶ崎城の襲撃に始まり、三条口、四条口より 洛中に乱入し、法華寺院近辺を中心に下京は 焼失し、上京も三分の一ほども焼失すると云う、 その被害は応仁の乱をも上回ったと歴史は伝え ます。 余談ですが、五山の送り火、「妙」は 日像が杖で妙の字を書いて点し、「法」は 日良が書いたものであると伝わります。 万治元年(1658)に著された「洛東名所集」 に「妙法」の送り火が紹介されているので、 江戸時代初期には点っていたことになる ようです。 さて、玄関とも云える総門は本瓦葺きの 四脚門で重要文化財。ここから緩やかな 石畳が仁王門へと続きます。仁王門は 平成に入ってから修復されたようで、 天井には色鮮やかなボタンの絵が、天井板 一枚一枚に描かれています。 |
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仁王門から本堂、その傍らにはこぢんまり した多宝塔が建っています。二層目は 本瓦葺きですが、一層目は行基(ぎょうき) 葺きと云われる特殊な葺き方をした、 まる瓦だそうです。 それは京都市内に現存する最古の多宝塔です。 また、塔頭寺院のひとつ霊光院には将棋の 名人で、信長から桂馬の一字を与えられ、 宗桂を名乗ったと云う人物の墓があり、 それは将棋の駒の形で、裏面には桂馬と 刻まれているとか、 今回は見ることが出来なかったのが残念… 他にも近代医学の礎となった、宗有、妙正、 そして伊良子一族が眠ることでも知られます。 宗有は当時の肺病研究の第一人者、その治療 には朴木(ほおのき)が効くとされ、泉涌寺 にはこの話にまつわる朴木が残ります。 最近、海外では新型肺炎が広がりをみせて いますが、見えない敵だけにやっかい、 変な恐怖心を抱く必要はないけれど、 無防備、無知識ではいられないか… 宝塔寺へはJR稲荷駅から伏見稲荷大社、 石峯寺を越えて徒歩15分ほどです。 観光寺院ではないので静かな佇まい、境内は 自由に拝観できます。 |