坂遺跡は米代川の支流である阿仁川が大きく蛇行するところ、流路に挟まれるような河岸段丘上、標高50〜52mに位置している。

 縄文時代後期末から晩期初め(約3,500〜3,000年前)主体の遺跡で、これまでの6,000u余りの調査では住居跡・土壙・集石遺構・溝跡・柱穴列2列等の他、多量の土器・石器が見つかっている。

 集落全体の面積は、周辺地形などを加味すると数万uにも及ぶ大集落と考えられ、遺跡全貌解明にはほど遠い状況。

白坂遺跡現場

 成4年半年ほどをかけて発掘調査した結果、集落の南端に幅・深さ約1mの逆台形の溝と、それに沿うように柱列跡が2列発見されたと云う。

 溝全体の長さは不明だが、確認できた長さは約63mにも及び、本州では縄文時代の溝跡は初めての検出例と云われている。

 ムラの内外を区画したのではないかと見られ、特に溝の内側は神聖な場所であったと考えられると云う。

岩偶T 岩偶U

の内側の窪みから出土した岩偶2点。
岩板・土偶・ミニチュア土器・注口土器などと共に出土し、祭祀の際使われ・捨てられたと見られる。
岩偶は軟らかな凝灰岩を素材に人面を模して彫られたと云える。

 ”笑顔の岩偶”は何を象徴しているのであろうか?
自然に恵まれ豊かであった証であろうか?
それとも物心共に豊かなムラ社会現出を、岩偶に託したのであろうか? いずれにしても出土遺物から宗教的色彩の濃い集落であったと見られる。

白坂遺跡から検出された足跡とは?

白坂人の足跡

 跡から20歩分ほどの足跡が確認されたと云い、歩いている状態と立ち止まっている状態が観察でき、又親指・かかと・土踏まずなどが明瞭に判読できたと云う。

 県内では初めてのケースであり、全国的に見ても数少ない出土例と云われている。

 25,000点余りに及ぶ出土遺物の中には、縄文時代前期から中期のモノも見られ、今後更なる発掘調査の機会に恵まれ、大きく新しい驚きに出会えることを期待したい。

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