青森市は今年で市制100周年を迎えるが、海と山に囲まれた風光明媚な土地で、縄文時代以来、自然環境に恵まれた大地に人々は生活基盤を求め、素晴らしい文化を育んできた。

 青森市は県レベルと同じく、“縄文文化の宝庫”と云われ、縄文前期中頃から中期中頃までの“円筒土器文化”、後期の“土腰内文化”、晩期の“亀ヶ岡文化”が代表的文化として知られている。

ここでは国指定史跡の「小牧野遺跡」・「三内丸山遺跡」は別のページに委ねるとして、それ以外の縄文遺跡群を取上げる。

蛍沢遺跡

 蛍沢遺跡は市内南部の標高約35mの丘陵地にあり、昭和51年に住宅団地造成に伴い約12,000uに及ぶ大規模な発掘調査の結果、縄文早期から晩期に至る遺構・遺物が発見された。

 本遺跡は市内では数少ない縄文早期の遺跡でもあることが判明し、ここでは早期の貝殻文土器を紹介する。
当時市内は海で、市内を取囲む丘陵・山岳地帯に村落が形成されていた。

(蛍沢式貝殻文土器)
文早期中頃の貝殻で文様を描いた土器は、従来のものと文様が異なることから“蛍沢の型式名”が与えられ、市内では唯一固有の型式名を持つ土器として知られている。

約9,000年前の縄文早期には、底の尖った突底土器が作られていたが、市内では唯一の貴重な遺物と云える。

岩渡小谷遺跡

 渡小谷遺跡は市街地から西方に約5kmの位置にあり、八甲田連峰から連なる丘陵縁辺に立地している。

 本遺跡は標高30〜50mほどの沖館川右岸にあり、平成12・13年東北自動車道八戸線建設事業に伴う発掘調査の結果、縄文前期中葉から後葉を中心に営まれた集落跡が検出された。

 丘陵上には竪穴住居址29棟のほか、土壙・埋設土器・焼土・捨て場・木組遺構などが出土したが、中でも木組遺構内から多量の加工材・自然木・木製品が見つかっている。
ここでは木製品に一部を紹介する。

土堀用木製品 柄頭付木製品

 文前期中葉〜後葉の沢中の遺物包含層からは、櫂・木材・舟形容器・漆塗り椀などの木製品も見つかっている。

 低湿地の水場遺構が、縄文前期という古い時期に丘陵上の小沢地帯に作られていたことは貴重な発見例として特筆される。
水場遺構の多くは縄文後〜晩期に見られる。

山野峠遺跡

 山野峠遺跡は市内東側陸奥湾沿いの浦島から近い、標高約90mの峠を挟む斜面に立地する。

 昭和42・56年の発掘調査の結果、列状に連なる土器館及び石棺墓が検出され、縄文後期前半の墓地遺跡であることが判明。

(遺跡現場)
遺跡は写真のように国道4号線の久栗坂トンネルの真上に位置し、石棺墓群と再葬土器棺墓群が互いに並んで見つかったと云う。

 東西2列の墓が谷地形の両側面、斜角度約50度の急斜面に形成され、周辺には住居に適した平坦面・緩斜面もないことから、立地適性上集落は存在しないと見られる。

石棺 土器棺

棺は、出土した状態のまま保存されている。
種類の違う墓は両者とも縄文後期初頭から前葉にかけて作られており、石棺墓に一度遺骸を直葬してから、その骨を取り出し、土器棺の中に納めて再葬するという埋葬方法が考えられている。

 本遺跡は縄文後期の墓制・葬制研究の糸口となった遺跡として貴重な発見であったと云う。

大浦貝塚

 大浦貝塚は市内野内の海岸線に立地し、昭和43年の発掘調査の結果、亀ヶ岡文化を有する縄文晩期の貝塚遺跡であることが判明。

 青森県内の縄文貝塚は、八戸市・三沢市など太平洋沿岸に集中し、50ヶ所以上確認されているが、亀ヶ岡文化の貝塚は極めて少なく、陸奥湾岸では本貝塚1ヶ所だけと云われている。

貝塚現場T 貝塚現場U

 場は陸奥湾を望む所と丘陵裾に所在する。
道らしいアクセスのない、隔離された海岸線にひっそりとした佇まい。

 本貝塚からは海水を煮詰めるための製塩土器片が多数発見されたことから、塩作りも盛んに行なわれていたと見られる。
製塩土器は火熱を受けて赤や灰色に焼け、細かく割れ、バケツのように上向きに口が広がった状態で見つかったと云う。
塩作り遺跡は陸奥湾岸に集中しているが、食料の保存が可能になり、食生活が格段に向上したと考えられる。

(骨角器)
労用具として網や骨角製の道具が使われたが、代表的なものが釣針とモリで、陸奥湾沿岸の貝塚から出土した。

骨角器のほか、アワビ・レイシなどの岩礁性貝類、ボラ・マグロ・サバ・マダイ・カレイなどの魚類、ウミガラス・アホウドリなどの鳥類、タヌキ・シカ・イルカ・クジラなどの哺乳類なども検出された。

朝日山遺跡

 朝日山遺跡は市内南西部、標高30〜50mの中位段丘上に位置する、縄文晩期中頃の遺跡。

 平成10年以降発掘調査が継続して行われ、木枠を持つ土壙墓をはじめ、400基近い土壙・土壙墓が出土しており、土壙の中には漆工芸品のような藍胎漆器のほかに、漆塗りのヒモ状製品や耳飾りなどの副葬品も見つかったと云う。

 カゴ状に編んだ藍胎漆器は2点とも伏せた状態で出土したことから、埋葬した人の頭部に被せていたと考えられている。
頭にモノを載せて葬る慣習は、縄文中期以降に見られ、特別な事情を持った人の埋葬パターンと見られている。

(土偶)
ックス線写真に見られるように、ハッキリとした中軸を持つ、ふくよかな土偶は女性の象徴を、陰影を交えながらも露にした異色な作品。

縄文晩期に至り、土偶も成熟し、芸術的表現にまで進化したと云える。

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