土井ヶ浜遺跡は本州最西端に位置し、山口県の響灘に面する西海岸・豊北町にある弥生時代の埋葬跡。
土井ヶ浜海岸に向かって東から西に伸びる丘陵があるが、この丘陵上に西風によって吹き上げられた砂層が厚く堆積している。
約2,100年前頃からこの付近に住居していた弥生人は、この丘陵地を基地として使い始め、身体の軸がほぼ東西になるように埋葬し、しかも頭をやや高くして、顔が西側に向くように、即ち中国大陸・朝鮮半島を望む海岸の方向に向けて葬られていた。
土井ヶ浜遺跡の発掘調査は、昭和28年に始まり平成8年まで16次に及び、現在も続けられている。
これまでの発掘調査結果、本遺跡は弥生前期中ごろから弥生終末まで300年を超える埋葬遺跡であることが判明。

当時としては未だ出土例が珍しかった弥生人骨が300体以上と大量に出土し、弥生人の顔・かたち・埋葬形式や方法・共同体の構成など人類学・考古学の研究に多大な貢献をすると共に、日本人の起源論争に一石を投じる結果となった。

 土井ヶ浜弥生人は“渡来系”と称され、縄文人的特徴を持たないとされているが、彼らは“いつごろ”・“どこから”・“どのような経路で”渡来してきたのか?

 これまでの研究結果、中国江南地域は弥生文化に多大な影響を与えた地域と見なされているが、九州・山口と中国大陸東部・朝鮮半島とは距離的に近く、両地域間の文化・人的交流があったと想定される。

遺跡パーク 今の海岸線

跡パークの左上に見える“土井ヶ浜ドーム”の地下には約80体の人骨が密集して眠っていると云う。

 “国史跡”である本遺跡パーク内には、人類学ミュージアムのほか、水田には赤米を、湿地には大賀ハス・カキツバタを植え、遺跡の全容を紹介している。

 本遺跡間際まで迫っていた当時の海岸線は、現在では数百m彼方に見える。

 本遺跡の最大の特徴は、300体を超える人骨を収納した埋葬施設にあると云える。
先ず“石棺墓”は扁平な石を組み合わせて棺としたもので、石の蓋はあるが棺の底石がないのが通例。
又石棺墓には複数の遺体が埋葬された“合葬”、後から新しく遺体を埋葬した“追葬”などが見つかっている。
以下お墓・人骨は発掘された状態を忠実に再現したと云う。

五体石棺墓 男女石棺墓 父子石棺墓

 5体の人骨が納められた石棺墓、男女一対の石棺墓及び父子が納められた石棺墓。

 これら石棺墓のうち5体の成人男性人骨の埋葬施設は、長辺が2.95m・短辺0.52mで、長辺は北側7枚・南側8枚の大型石、短辺には2枚の石、そして石棺の蓋には10枚の細長い厚手の板石が使われていた。

 5体は同時に埋葬されたのではなく、順次埋葬されたものと考えられ、初めから定められた高貴な身分の持主の埋葬施設と考えられる。
石棺の石材は、現在でも土井ヶ浜付近民家の庭石などとして利用されている、入手しやすい礫石であることが判明している。

鵜を抱く女性 矢射の英雄 再葬頭骨

 を抱く女性人骨、矢を射こまれ・貝輪をした英雄人骨及び再葬された集積頭骨。

 いずれの人骨も砂丘面に穴を掘っただけの土壙墓で、全体の90%以上を占める。大量の人骨が改葬され、集骨状態になった例は全国でも他に類を見ないと云う。

 土壙墓の中でも四隅に配石を持つものは木棺の台石であったかも知れず、その痕跡は見当たらないが、木棺墓であった可能性があると云う。

 この他にも土壙の上に墓標として石を横に寝かせた配石墓も見つかっており、埋葬施設全体の5%余りに達する。
配石墓には抜歯をしている熟年女性、ガラス小玉・貝製小玉・管玉などの副葬品を伴う特別な人物と見られる人骨も見つかっている。

 更に人骨の足元に頭骨が置かれたものもあり、呪術的・宗教的儀式が行われていたかも知れない。

 石棺墓・配石墓は東側の墓域に集中しており、東側に埋葬された人々は西側と区別されていたと見られる。
又石棺墓・配石墓の石材には巨大なものが多く、複数の人々が埋葬に伴う共同作業・一連の儀式に関与し、社会的連帯意識を高める作用・効果があったと考えられる。

 埋葬の形式・方法などの墓制や被葬者の頭の方向・性別・年齢・抜歯の有無などを手がかりとして共同体の構成などは考古学研究上極めて貴重な情報を提供し、今後の研究には期待が持てる。

 又保存状態が良好な300体超の弥生人骨は人類学上これまた貴重な情報を提供している。
土井ヶ浜弥生人骨から判明した、形質人類学上の特徴としての彼等の顔・かたちは面長で、鼻根部が扁平で、高身長という、縄文人とは異なる容貌をしていたことが明らかになり、日本人の形質変化・日本人の起源論争に一石を投じた。

 土井ヶ浜弥生人は“渡来系”と称され、縄文人的特徴を持たないとすれば彼らは「いつごろ」、「どこから」、「どのような経路で」渡来してきたのか?
出土したアクセサリーにそのヒントが隠されている!

壷など土器群 丹塗り土器

器類は弥生前期中ごろ(紀元前250年頃)から中期中ごろ(紀元50年頃)までの土器が中心で、壷が圧倒的に多く、高杯が少量出土している。
本遺跡は墓地遺跡であることから、これらの土器群は墓に供えられた副葬品として儀式に使われたと見られる。

 又墓の側から出土していることから、食物・飲物を入れて供えられたことが分かる。更に土器の表面に赤い丹が塗られている儀式用土器も見つかっている。

 貝殻文などの文様・胴部中央に空けられた穴などの類似性から、北部九州・瀬戸内海地方との交流があったと推定されている。
以下国内では類例を見ない、大変珍しいアクセサリーを含め、高貴な装身具を次の順番で紹介する。
管玉・勾玉などの玉類、貝珠など、貝製指輪、玉状貝製品、いろいろな貝輪そしてイモガイ製貝輪の順番。

 スイの勾玉・緑色の石を磨いて作った管玉・濃い緑色の石製小玉・平たい玉の貝珠などの玉類が見つかっている。
ペンダントか、耳飾りか、腕輪か使用目的がハッキリしていないが、多くの玉類は単独人物により使われている。一部の特別な男女が装着していたと見られる。

 指輪はいずれも巻貝製で、山形の突起のついたものも見られる。
人骨の指にはめられていたもの、添えられていたり、人骨側に置かれていたものもあったと云う。

 玉状貝製品は小さな穴が空けられていることから、アクセサリーとしてつかわれていたと推定される。
これらいろいろな形状の小型貝製品は人骨に伴うことなく、墓地内の小範囲にまとまって見つかったと云う。
これらの玉状貝製品が未だ国内では類例を見ない。

 貝輪の形は貝の種類毎に異なり、女性用は近海の二枚貝で作られ、男性用は琉球列島のサンゴ礁域に棲むゴホウラ貝に限られ、一方子供用は小型のゴホウラ・イモガイ・二枚貝などが使われていたと云う。
女性・男性・子供用に対応した貝輪作りは当地の大きな特徴と云える。
各々腕のサイズに合った貝類を厳選して作られていた点は注目に値する。

これら多種類のユニークなアクセサリーは何を物語っているか?

不思議なことに、土井ヶ浜弥生人のアクセサリーには縄文時代の伝統を見つけることができず、弥生文化と縄文人的特徴が共存する西日本弥生人のアクセサリーとは際立って異なっている。
例えば貝珠は朝鮮半島・中国東北部で作られていたものと同じであり、碧玉製管玉は朝鮮半島、貝輪も全ての種類の発祥が朝鮮半島から中国東北地方の文化に行き着くと云う。
土井ヶ浜弥生人は朝鮮半島・中国東北地方の沿岸民に共通する文化を持ち、共通する固有の地域性は朝鮮半島沿岸部などの半農半漁民の中に潜んでいると云われる。

 又ゴホウラ・イモガイなどサンゴ礁の大型貝類の入手ルートは、九州西北部に同類のアクセサリーが存在することから、土井ヶ浜弥生人は西北部九州・朝鮮半島・中国大陸東部・琉球列島に出向いて、自らの足で集めた貴重品であったことが分かる。

 更に土井ヶ浜弥生人の顔・かたちの形質的起源が中国大陸の青銅器時代(約3,000年前)の古人骨に酷似していることが判明している。

 中国大陸ではどの地域の、どの時代に起源が遡り、どこから、どのようなルートで、山口まで入ってきたのか興味は尽きない。

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