山 口 県 豊 北 町 土 井 ケ 浜 遺 跡
土井ヶ浜遺跡は本州最西端に位置し、山口県の響灘に面する西海岸・豊北町にある弥生時代の埋葬跡。 |
当時としては未だ出土例が珍しかった弥生人骨が300体以上と大量に出土し、弥生人の顔・かたち・埋葬形式や方法・共同体の構成など人類学・考古学の研究に多大な貢献をすると共に、![]() 土井ヶ浜弥生人は“渡来系”と称され、縄文人的特徴を持たないとされているが、彼らは“いつごろ”・“どこから”・“どのような経路で”渡来してきたのか?
これまでの研究結果、中国江南地域は弥生文化に多大な影響を与えた地域と見なされているが、九州・山口と中国大陸東部・朝鮮半島とは距離的に近く、 |
遺跡パークの左上に見える“土井ヶ浜ドーム”の地下には約80体の人骨が密集して眠っていると云う。 “国史跡”である本遺跡パーク内には、人類学ミュージアムのほか、水田には赤米を、湿地には大賀ハス・カキツバタを植え、遺跡の全容を紹介している。 本遺跡間際まで迫っていた当時の海岸線は、現在では数百m彼方に見える。
本遺跡の最大の特徴は、300体を超える人骨を収納した埋葬施設にあると云える。 |
5体の人骨が納められた石棺墓、男女一対の石棺墓及び父子が納められた石棺墓。 これら石棺墓のうち5体の成人男性人骨の埋葬施設は、長辺が2.95m・短辺0.52mで、長辺は北側7枚・南側8枚の大型石、短辺には2枚の石、そして石棺の蓋には10枚の細長い厚手の板石が使われていた。
5体は同時に埋葬されたのではなく、順次埋葬されたものと考えられ、初めから定められた高貴な身分の持主の埋葬施設と考えられる。 |
鵜を抱く女性人骨、矢を射こまれ・貝輪をした英雄人骨及び再葬された集積頭骨。 いずれの人骨も砂丘面に穴を掘っただけの土壙墓で、全体の90%以上を占める。大量の人骨が改葬され、集骨状態になった例は全国でも他に類を見ないと云う。 土壙墓の中でも四隅に配石を持つものは木棺の台石であったかも知れず、その痕跡は見当たらないが、木棺墓であった可能性があると云う。
この他にも土壙の上に墓標として石を横に寝かせた配石墓も見つかっており、埋葬施設全体の5%余りに達する。
更に人骨の足元に頭骨が置かれたものもあり、 石棺墓・配石墓は東側の墓域に集中しており、東側に埋葬された人々は西側と区別されていたと見られる。 埋葬の形式・方法などの墓制や被葬者の頭の方向・性別・年齢・抜歯の有無などを手がかりとして共同体の構成などは考古学研究上極めて貴重な情報を提供し、今後の研究には期待が持てる。
又保存状態が良好な300体超の弥生人骨は人類学上これまた貴重な情報を提供している。
土井ヶ浜弥生人は“渡来系”と称され、縄文人的特徴を持たないとすれば彼らは「いつごろ」、「どこから」、「どのような経路で」渡来してきたのか? |
土器類は弥生前期中ごろ(紀元前250年頃)から中期中ごろ(紀元50年頃)までの土器が中心で、壷が圧倒的に多く、高杯が少量出土している。 本遺跡は墓地遺跡であることから、これらの土器群は墓に供えられた副葬品として儀式に使われたと見られる。 又墓の側から出土していることから、食物・飲物を入れて供えられたことが分かる。更に土器の表面に赤い丹が塗られている儀式用土器も見つかっている。
貝殻文などの文様・胴部中央に空けられた穴などの類似性から、 |
ヒスイの勾玉・緑色の石を磨いて作った管玉・濃い緑色の石製小玉・平たい玉の貝珠などの玉類が見つかっている。 ペンダントか、耳飾りか、腕輪か使用目的がハッキリしていないが、多くの玉類は単独人物により使われている。一部の特別な男女が装着していたと見られる。
指輪はいずれも巻貝製で、山形の突起のついたものも見られる。
玉状貝製品は小さな穴が空けられていることから、アクセサリーとしてつかわれていたと推定される。
貝輪の形は貝の種類毎に異なり、女性用は近海の二枚貝で作られ、男性用は琉球列島のサンゴ礁域に棲むゴホウラ貝に限られ、一方子供用は小型のゴホウラ・イモガイ・二枚貝などが使われていたと云う。
不思議なことに、土井ヶ浜弥生人のアクセサリーには縄文時代の伝統を見つけることができず、弥生文化と縄文人的特徴が共存する西日本弥生人のアクセサリーとは際立って異なっている。 又ゴホウラ・イモガイなどサンゴ礁の大型貝類の入手ルートは、九州西北部に同類のアクセサリーが存在することから、土井ヶ浜弥生人は西北部九州・朝鮮半島・中国大陸東部・琉球列島に出向いて、自らの足で集めた貴重品であったことが分かる。
更に 中国大陸ではどの地域の、どの時代に起源が遡り、どこから、どのようなルートで、山口まで入ってきたのか興味は尽きない。 |