口貝塚は馬刀潟湾西端の山際に位置し、平成元年から6年まで4次にわたる発掘調査の結果、約6、000年前の縄文前期から弥生時代初頭まで約4、000年間という長期間にわたる遺跡であることが判明。

 当貝塚の出土遺物・遺物は約6,000年前の土器をはじめ多数の土器片・石器・カキやハマグリなどの貝殻・貝輪などの装飾品・タイやスズキ、シカやタヌキなどの骨と骨製品・住居跡・縄文晩期の人骨・配石遺構・配石墓・土壙墓など枚挙にいとまがない。

 縄文前期からの周辺の地形変化・環境の移り変わり・縄文人の住まいや生計など生活環境・様式を明らかにする全国的にも類まれに見る貴重な遺跡として知られている。

江口貝塚現場貝塚周辺情景

 塚の背後にある小丘陵に上がれば、沖を行き交う船や芸予諸島の島々が眺められ、瀬戸内海の穏やかさを満喫できる風光明媚な所。

 電気探査など調査の結果、当貝塚は三日月状に近い形態で南北約14m・東西4〜10mの範囲に広がり、丘陵斜面に沿うように堆積していたと云う。

 縄文中期には住居址・配石遺構などが平坦面を利用していたものが、後期以降になると貝塚層位は西の山側から東の低地に向けて緩やかに傾斜を持ちながら堆積するように変化している。

 このことは人々の生活面がより高い山側に移動した結果と考えられ、時代の環境変化を如実に物語っていると云える。

配石遺構

 文中期前半のモノで、楕円形状に地面を掘り込みその縁に石を置いた。

 配石にはイルカの脊柱骨が並べられたり、サザエの集積が見られたりしていることから、海の幸を供える豊漁祈願をした祭祀目的の遺構と見られる。
配石遺構は西日本では数少なく貴重な資料と云える。

男性人骨女性人骨

 文晩期の長楕円形に掘りくぼめた2基の土壙墓には、各々熟年男性は北枕の仰臥伸展葬で、熟年女性は東枕の仰臥伸展葬で埋葬されていたと云う。

 他にも3基の配石墓が人骨片を伴って発見されていることから、丘陵裾部は縄文後・晩期の集団墓域として利用されていたと考えられている。

 墓域の存在はこの付近に集落が形成され、季節的移動の少ない定住集落に成っていったと見られる。

江口貝輪江口骨角器

 殻で作った貝輪は完形品でイタボガキ製と云われる。
又骨製刺突具や釣針・ペンダントなど骨角器も装飾品・生活必需品として生活の一部を成していた。

 この他にも多様式・多量の土器片が各時代間断なく発見され、一連の出土遺構・遺物は生活の基本要素を構成し、かつ当時の生活形態を物語る生々しい発見として、瀬戸内海と人間との関わり合いについての調査・研究に資するものと確信する。

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